牙の会
目次
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日本犬写真コンクール
プロフェッショナル日本犬写真家への登竜門 "牙大賞"制定!
石器縄文弥生史の先端を生きたイヌは、その遺伝子にヤマトヒトの魂を刻む史料生命です。
この日本犬の真実を捉えた写真映像を、国内はもとより、世界へ映し出す時がきています。二万年培った日本人の心の文化が、いま世界を席捲しているのです。
日本犬保存界に存在する炯眼のクリエータ写真に、とりわけ広告業界注視必至を予知します。
近代以後、日本犬保存期に入って、犬と星霜を共にした者でなければ、既存の写真家では、日本犬の撮影は不可能の領域に、わたしたちはいます。言わば特殊集団です。
牙大賞への応募を待ちます。
貴兄の直観にしか撮れない日本犬の極致を表現して下さい。(換毛期の撮影は避けて下さい。)
応募規定
- (1)被写個体の団体登録番号、犬名、性別、年令、及び所有者氏名を明記。
- (2)応募者(著作権者)の電話番号記入は、広告業界、出版社からの直接オファーに必要。
日本犬科学研究室は、応募の優秀作品を、選考に入る前から、業界へ働きかけて行きます。 - (3)引綱による強制立ちと、訓練所での被写個体不可。
- (4)パソコン等での合成写真不可。
- (5)フィルムポジ有効。
- (6)プリントサイズは2Lに限る。
選考基準”日本犬”
(団体の賞歴は選考に一切関係いたしません。)
選考委員 |
井上 雄(牙の会主宰) 井上 百合子(日本犬科学研究室代表) |
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賞位 |
牙大賞一作品 ダイヤモンド牙賞二作品。 |
ホームページ掲載料 | 一作品二千円+税。 |
応募締切 | 11月30日17時 |
選考発表 | 12月31日ホームページにて。 |
応募先 | 日本犬科学研究室 〒649-5466 和歌山具東牟婁郡那智勝浦町樫原1161番地 TEL 0735-56-0181
FAX 0735-56-0182 |
掲載料振送先 | 第三銀行 勝浦支店 普通口座6005280 井上 百合子 |
日本犬写真コンクールに関する問い合わせは、TEL0735-52-6150まで。
犬と日本人
田名部 雄一 (岐阜大学名誉教授)
1. 犬 と 人
犬は最古の家畜であることは確実で、その家畜化は従来1万5千年〜2万年前と考えられてきたが、最近3万年の家畜化された犬の骨が発見されたので3万年以上にさかのぼることがわかった。
犬が家畜化されたのは他の家畜のように食用や労役など経済的な目的でなく、人との間に相互利益のある共生関係によったと考えられる。1)犬の祖先は始めは人の残飯をあさるため人に近付いてきたと考えられる。人は始めは犬を追い払ったと考えられる。しかしその内に人は犬が夜の野獣の襲撃に対抗するのに有効であることを見出した。人の属する霊長目の種は哺乳類ではめずらしく昼行性であり、色覚があるが夜目が見えない。一方犬は夜行性で色盲だが、夜目がよく見える。単に相互利益のある共生関係的家畜化は猫の場合にも認められる。人はネズミを捕えてくれる猫を珍重した。しかし人と犬との間には完全な相互信頼関係が生れたのに、猫と人との間ではあっても極めて不完全である。これは人と犬とは精神構造や社会構造が極めて似ているのに対し、人と猫では全く異なっているためである。犬はその祖先であると思われるオオカミが集団生活をしていたためもあり、順位制があり特にリーダーであるボスには絶対服従する。一方猫は繁殖季以外は単独生活を好みテリトリーをつくり、容易にボスには従わない。このような精神構造・社会構造の類似は人と馬の間や人と牛の間でも認められるが、前者間では相互にかなりの信頼関係が生ずるのに、後者間では不完全である。これは馬は経済動物であっても、相互信頼関係の必要な乗用などの使役に使われるのに対して、牛は乳肉など食用や、農耕など一方的使役用として使われるためであろう。
犬は人に飼育されると人特に一家の主人をボスとして真に献身的に仕えるようになる。犬が人に対する態度は人が神に対する態度と極めて似ている。 2)これは人の知能が犬に比べてはるかに優れていることにもよるが、精神構造や社会構造が相互に極めて似ていることにもよる。少なくとも人の考えている神は人が頭の中で創造した超人的な力をもつ存在であるから、人の神に対する態度と犬の人に対する態度に、類似性が認められるのもうなずけることである。
2. 日 本 人 の 成 立
日本に始めて入ってきた人は恐らく旧石器時代に入ったと考えられる。この頃の石器は発見されるが人骨は発見されない。この最初に入った人の群れ(旧石器人)は現在の日本民族の形成に大きな寄与をしていないと思われる。1万数千年前以降の新石器時代には人骨が見出されるようになる。これが縄文人で、土器に縄で模様をつけたことからこの名がある。この縄文人は古モンゴロイドに属している。この古モンゴロイドは1万年前には、アジア大半と南北アメリカ大陸に住んでいた。この古モンゴロイドは寒さに適応していず、目がくぼみ鼻が高いなど顔も凹凸が大きく、髭が濃かった。一方この頃シベリア北部に非常に寒い気候に適応した顔の凹凸の少ない、髭の薄い新モンゴロイドが出現した。この新モンゴロイドはその後アジア大半から古モンゴロイドを追い出し、北アメリカ北部も、この人種に属するエスキモーが占めるようになった。これはこの頃の地球の寒冷化の影響で、新モンゴロイドが南下したためと考えられる。この新モンゴロイドは今日の中国人や蒙古民族、朝鮮にすむ人種はすべてこれに属する。最近の骨学的及び血液型、血液蛋白質多型の研究によると1万年前頃日本に入った古モンゴロイドの縄文人は南方から我国に入って来たと考えられ、アイヌや琉球の先島列島にいる人は、この直系の子孫であると考えられる。一方2,300年前頃朝鮮半島を経て我国に入って来た弥生人は新モンゴロイドに属し、今日の日本人はこの両者の混血により成立したが、恐らく文化的にすぐれていた弥生人は先住の縄文人を服従して日本の古代国家が成立した3,4,5)
この民族の移動の際、縄文人も弥生人も独自の犬を伴って日本に渡来した。犬の骨は古いものは14Cを用いる年代測定の結果9,400年前になるが、馬・牛・鶏は、いずれも2,300年前以降のものしか見つからない。このことから縄文人は家畜として犬しかもっておらず、他の家畜はすべて弥生人がもってきたと考えられる。
3.日 本 犬 の 成 立
日本犬には現在北海道犬(かつてアイヌ犬と呼ばれた)、秋田犬、甲斐犬、柴犬、紀州犬、四国犬(かつて土佐犬と呼ばれた)の6品種がある。
著者らは、太田克明・名大助教授と共に、これら日本犬と台湾高砂族の犬、韓国在来の珍島犬、中国南部原産のチャウチャウ、エスキモー犬、および各種ヨーロッパ犬の血流を採取して、主に電気泳動法により、その蛋白質多型(同種内で表型の異なるものを意味する)現象を調べた。多型を支配する15遺伝子座上の36遺伝子の頻度(比率)の差から、犬種相互の遠近関係を調べた。日本犬にはヨーロッパ犬には全くないヘモグロビンAやガングリオシドモノオキシゲナーゼGなどの遺伝子が見出されるばかりでなく他の多くの遺伝子でもその頻度が著しく異なっていることがわかった。これら多型を示す遺伝子の頻度の違いを分散共分散行列から得た主成分分析を行った結果が図1に示されている。
図1.
日本犬中北海道犬(アイヌ犬)は他の日本犬と異なり、台湾在来の高砂族のもつ犬や、中国南部原産のチャウチャウと近かった。一方日本犬に独自に見出される遺伝子や、日本犬にヨーロッパ犬より高い頻度で見出される遺伝子はすべてより高い頻度で韓国在来の珍島犬で見出された。6)これらのことから先に南方から縄文人に伴って古い犬が日本に入り、つぎに朝鮮半島を経て弥生人が新しい犬を日本に持込み混血して今日の日本犬の祖先が成立したと考えられた。また北海道犬はこの新しい犬の遺伝子の混入が殆どなかったと考えられ、また北方から入った可能性は殆どない。それはエスキモー犬の血液蛋白質の遺伝子構成が北海道犬と全く異なるからである。7)
4. 日 本 犬 と 日 本 人
この日本犬の成立の歴史は、有史前の日本人の成立の歴史と深い関係がある。すでにのべたように犬は常に人と共に移動する。日本人が縄文人と弥生人と二元的に成立し、北海道のアイヌや琉球南部の人が先住の縄文人の直系の子孫と考えられることはすでにのべたが、このことは最近ある種の白血病ウイルスであるATLの感染者の分布からも証明されている。8) 古事記や日本書紀にみられる歴史的事実も新しい渡来人である弥生人(和人)と古い先住民の蝦夷や熊襲との争いの物語があり、和人の頭領である天皇家が東北の蝦夷征服にある程度成功したのは桓武天皇の時代(804年)であった。この征服がほぼ完成したのは源頼朝の平泉の藤原泰衡を亡した1192年であると思われる。
しかし追われて北海道に渡った蝦夷がアイヌであり、容易に同化されなかった。そのため彼等は古い型の日本犬を殆どそのままの形で保存していたと考えられる。
2)Hardy,A.(1975)The biology of god.Jonathan Cape Ltd,アリスタハーディ・長野敬・中村美子訳(1979)神の生物学、紀伊国屋書店
3)埴原和郎(1983)サイエンス13(1):82-94、日本経済新聞社
4)埴原和郎(1984)「日本人はどこからきたか」小学館
5)埴原和郎(1986)「日本人誕生」集英社
6)Tanabe,Y., S Ito, K.Ota, Y.Hshimoto, T. Yamakawa, Y.Y.Sung and. J.K.Ryu(1985)
Proc. 3rd AAAP Anim Sci. Congr.(Seoul). 1:290-292
7)田名部雄一(1985)「犬から探る古代日本人の謎」PHP研究所
8)日沼頼夫(1986)「新ウイルス物語」中央公論社
牙の会紀州犬史観
紀州犬の作出は、紀伊山地の史実体系への照合率追求以外に方法はありません。
史料精度が血液純度の近代日本犬です。
鎌倉初期以来、紀伊山地の熊と犬の叙事詩が、平家一門奈目良一族数百年の歴史だったのです。
一族の末裔、奈目良岩夫氏(龍神村)の証言が遺っています。
「平然と死に臨む数分間に、熊の胆嚢肥大を促し、死に至るのが犬の役目!」
この死に臨むDNAを携えた犬を、十津川村では、“もののふの犬”と言いますが、犬に逃げる機能を失わせた残酷さが、人間の証でしょうか。
いまも歴史のおもかげが遺る紀州犬に、哀惜がつのります。
牙の会主宰 井上雄
制作発表
紀伊半島中世医療史を支えた白毛中型犬を、昭和の紀州犬に蘇生させたのは、成田哲郎だったのです。
エトランゼ成田が、熊野中世史を裏付ける紀州犬の作出に挑んだ動機は何か!
成田が遺した紀州犬の遺伝子に成田哲郎の人間像を追究するドキュメンタリー
『紀伊山地の白い神々』は、11月3日にクランクインいたします。
成田哲郎に関する資料(成田哲郎自身の写真、手紙、仙太郎荘犬の写真等)を
所蔵されている方に、お貸し頂けることを切にお願い申し上げます。
牙の会主宰 井上雄
日本犬保存会会誌に掲載
”ヤマトイヌ”
牙の会主宰 井上 雄
イヌはヒトが作った最初の命です。
実は、この宴の上座に、小口村大山主の総領、兵連治左衛門氏が座っていたことが、最近の取材で分かりました。
二世紀、日本海は中国文明渡来海峡となった。
イヌはヒトの目が棲み処です。
ヒトもイヌの目を見つめて、生きてきました。その眼差しは、生きとし生けるもの愛しむヤマトヒト永遠のエレジーです。
舳先に子ノ星を仰ぎ、黒潮に乗り、この列島に辿りついたヒトとイヌに、田名部雄一は日本人の起源を報告しました。さらに、単一民族が単一犬種(小型)を携えた二万年の軌跡を証す史料は、日本犬以外に存在しないと付け加えています。
このシンポジウムに参加した埴原和郎(人類学)は、縄文晩期の列島人口を六万四千と推計しました。
縄文晩期から一万年遡った新石器のヒトとイヌの緊密度は、互いに失うことのできない、命の絆だった。
ヒトにはまだイヌを飼う概念はなく、離反不能生命の石器生活環境を想像いたします。
田名部の日本人起源の報告に、ノスタルジックに共感を覚える必然に、石器人に遡るDNAが、末裔に働いているのかもしれません。
犬に史料追求のナショナリズムが生れ、昭和初期に興った日本犬保存事業が、古代史の闇を照らすことになります。
アカデミズム七人の侍が、新宿の裏長屋、雨漏りする一室を、梁山泊の如くに陣取った砦が、日保だったのです。
列島ほぼ全域に踈々と生き遺っていた小型種の分布が、悠久の歴史を裏付ける日本犬の概念を生むのです。
日本史の不思議は”日本危うし”の瀬戸際に、何処からともなく得体の知れない野武士が現れて、日本を救ってきたのでした。
だが、日本犬保存会栄光の草創期、今何処!その亡霊が文部科学省に遺っていました。
名古屋大学が学部を超えて、日本犬の研究は避けられない状況に鑑み「日本犬研究所設立申請」を行った。その回答は、国家行政の文言に非ず、と判断した学長は、再度の申請にも同回答だった。
「国立大学が国家の予算を投じて、日本犬研究所を設立しなくとも、日本犬保存会という立派な研究団体がある。必要なデータは日本犬保存会へ要請すべし。 文部大臣」
農学部の太田克明教授は「京都大学の霊長類研究所予算の四分の一に収まる企画でした。日本の大学に、日本犬学部創設の礎計画だったのです。無念です。」
太田教授は間もなく、信州大学へ異動された。
日本犬への強い科学関心を寄せているのは、名古屋大学だけではありません。
公益社団法人認定を受けない団体の行方に懸念を抱かれるのは、京都大学の高柳敦教授(森林生物学)です。
熊がご専門範畴の教授は、紀州犬への関心は一入のようです。
筆者が係わる紀州犬使役史次元の猟能保存現場の説明に、三十数分必要でした。
鎌倉初期以来、紀伊半島疫病医療史を支えた白毛中型犬の熊狩文献を、紀州犬猟能基準に用いています。
熊を即死させない猟法を、猪を使っての検証です。
熊を即死させない猟法とは、犬が死に至るまでの闘争持久率を、熊の胆嚢肥大率に換算する猟法です。
槍弓で熊を即死させる胆嚢の自然値を、犬の闘争持久率で胆嚢を三倍に、肥大を促す臨場を想定した現場です。
紀州犬の平然と死に臨む宿命の猟能に、優しさの極致を表現する神経を、現場は確認しています。
この優しさが史実体系の猟能の証なら、優しい神経の追求が、正確な保存を保障するはずです。
但し、優しさと音無しさの神経分類認識が求められます。
音無しい神経は、優しい神経に比べて、反射反応が鈍く、瞬発力に欠け、個体比重の軽さが駆動に加速が乗らない。猟慾の緩慢性は動きに切れ味がない、等々。
優しい神経個体の死を覚った眼の鎮けさに、近寄り難いものがあります。武士の村十津川では、もののふの犬といわれる所以でしょうか。
因みに、日保紀州犬の祖犬は十津川の白号でした。
京都大学では他の先生の意見です。
「ドッグショウ用に改良される以前の個体資料は、貴重にして重要ですので、保存管理して下さい」胸に突き刺る追及と受けとめる筆者でした。
明治二十二年以来の、熊野水害は、山岳地の色川にも水禍を遺しました。拙犬たちは予め木立に係留して助かりましたが、送電線寸断による停電に、緊張が走りました。
紀州犬十四頭、四国犬三頭、小型犬四頭、北海道犬一頭、甲斐犬一頭、計二十三頭の保管冷凍室機能が停止したのです。
業務用発電機確保に、災害地の道なき道を往きつ戻りつ、通常二時間の道程を、六時間を要して田辺市に辿りつきました。しかし何れの取扱店でも発電機は売り切れだったのです。
ドライアイス三十キロ買って、家路につきました。
細胞に腐敗が始まっている可能性は、否定できない。停電五日間経過しているのです。
日保犬籍に無縁の紀州犬二頭は、特別貴重史料に値します。
鎌倉期より小辺路の熊狩り使役を生きた、白毛中型犬の末裔です。この史料の重要性が、この時俄かに脳裏にクローズアップしてきました。
細胞の腐敗は免れなくとも、骨格のグレードは失わない筈です。
懐中電灯を照らし、恐る恐る冷凍室の扉を開ける。蒼味を帯びたまだ完全冷凍状態の犬を抱きしめる代表者、井上百合子歓喜の号泣余韻が、冷凍室に籠ったのでした。
制定された日本犬”標準”は、団体の如何を問わず、文言と不文律で構成しています。
不文律には会員個人の重要な日本犬観が存在するのです。
”標準”は日本犬保障です。”標準”の解釈が誤れば、歴史偽証必至の現場に、わたしたちはいます。
リングに立った固体の優生機能と、猟能を的確に確認する視力の会員が、存在します。
“標準”の解釈が導くその炯眼は、訓練所を使い、史実体系との照合率追求に作出を確立した、基礎史学必須の現場です。
日本犬使役の実猟経験のない者が、日本犬の審査に臨む矛盾を”標準”の解釈が超克するのです。
審査部用語に「猟能」の語彙がなくとも、例えば「引綱弛み、尾は垂れ(下げているのではない)、静謐に立つ澄んだ神経」を「個評」に、スケッチした岩橋恒二は「リングは人と犬が命を交感する、一期一会の茶室である」と言い遺しています。
この「引網弛み、尾は垂れ、静謐に立つ澄んだ神経」には、先天性の猟能を的確に捉えているのです。猟師臭い文言は欠けらもない「個評」に、日本犬への直観が冴えています。
審査の魂が乗り移る「個評」に、偽証は許されないのは、未来の日本人が読む重要な史料だからです。
一冊のノートがあります。
大臣賞に狂った異常者たちの連鎖行為は、保存史を歪めた日本犬受難の記録です。
ある父子の例だけを寸挙に止めます。
賞をもらえない犬をくりかえし、保健所へ連れて行く父親に、絶望した中学生の息子が家出をしたのです。
その息子が社会人になりました。家庭を持ちました。拾ってきた捨犬を、家族で大切に飼っています。
この父にしてこの子は、野犬が生んだ狼かもしれません。
イギリスの歴史学者トインビーが言った「叢にすだく虫の音に、涙を流す民族」とは日本人のことです。
縄文遺跡に、犬抱く人の骨格形状に、考古学は犬飼うヤマト心を確認したのでした。
冷凍室に眠る奈目良犬
小辺路に遺った小型
近代紀州犬の保存過程は、使役史観喪失の犬くらべでした。
その席順価値観を、破壊するかの作出の天才は、作出に駆使した鉄号を「太平洋を望む、熊野の太陽が降り注ぐ三輪崎山に、埋葬しました」と筆者に言ってくれました。
太平洋戦争に学徒動員された、エトランゼが際疾い生還を果された。もし還らなかったら、日本はその責任を、歴史に引き摺ることになる。
エトランゼが熊野巡礼に、旅発ったのは、みづくかばねにレクイエムではなかったか。
神倉山麓に結んだ紀州犬作出庵「仙太郎荘」が生み出した生命が、太平洋に遺してきた戦友への鎮魂歌であったなら、皮肉にも平然と死に臨む、中世白毛中型犬の、復活だったのです。
成田哲郎の「鉄忌」は、五月四日です。西国一番札所、那智山青岸渡寺で営まれます。
山岳を駆ければ、四肢の強靭性は先天的です。鋭角に曲がる律動的駆動で包囲した猪の股倉を潜り、搦め獲る声、百舌の如く、猪狩りのエキスパート小型の使役生態です。
写真はその個体です。
小辺路に遺っていたこの小型(冷凍保管)は、日保小型とは胴体と四肢の比率が逆の構成を成して、四肢が主体の使役機能を証しています。
日保小型とこの小型の比較解剖を予定しているのですが、大学はどのようなデータを採取するのか、紀ノ川縄文犬のDNAとの照合性にまで踏み込んでもらいたいものと考えています。
新石器以来二万年の採集史を支えた小型のDNAが今に奏でているのかもしれません。
猪猟に中型を用いる、用途の錯誤を如実に証す犬の死傷率は、趣味、スポーツの領域を逸脱しています。しかも、猪猟に中型を使うのは日保会員で占めているのです。歴史に逆行の保存作業は存在しません。
長野県で柴犬十頭程飼育する猟師は、日保会員ではなく、独自の猪犬を体系化した、老練の作出家がいます。むかし紀州でも”豆紀州”といわれた猪犬が、日高川流域で作られていた話を、旧美山村村長から聞かされたことがあります。
吉野の著名な猟師、中川徹氏は猪犬の条件を「体小さく、牙使わず、口吻締まった(声高い)、軽い足」と挙げています。
不文律が核の”標準”を拠り所に、日常の時間と空間にも日本犬の条件がありました。
曳綱の先に紀州犬がついています。雑踏の変幻する隙間を縫って歩む、曳綱に適度の弛みをはかる歩行にも、日本犬が生きる社会性が、つたわってきます。
乳幼児が目を覚ませば、泣くのが成長過程です。目を覚ました乳幼児に、おろおろうろたえる紀州犬が、寝所と子の母が立つ厨とを、行ったりきたりする様子も、授乳のあとは眠る子のそばに、安堵の紀州犬の貌がありました。
平家一門龍神奈目良一族、血統書なき最後の奈目良犬です。
巷に、犬を立たせて眺める風俗の興りは、日保草創の波長に煽られた市井の溜り場になりました。
眺めるかぎり、熊野犬の魔力に取り憑かれる者、今も跡を絶ちません。しかし、遺伝子のボタンを一つ掛け損なうと、十津川では「九百九十九頭の鹿を屠り、千頭目に猟師を殺す」と猟師の宴に謡われます。
熊野から伊勢路へ征った、犬たちの末裔は、極楽浄土犬のように、和みを堪えます。
さすれば、魔力の元凶が、炙り出されてきます。
ハチ!ハチの祖父は、大雲取山麓のオオカミだったことは、裏が取れています。
オオカミに凶暴神経は、生態学上存在しなくとも、イヌとオオカミを掛けたボタンは、森羅万象の摂理を冒し「千頭目に猟師が殺される」のは、必然の報いかも。
一説には、紀州犬に潜り込んだ、オオカミの生き残り戦略とも言われていますが、いずれにしても、イヌに閉じ籠っているオオカミの血の禍いにちがいありません。
オオカミ自身にも怨みがあります。
夏、山仕事を終えた樵たちが、和田川(大塔山系源流の、旧小口村を経由し、熊野川に合流する)の涼しい流れで体を拭います。水際の風を通す洞穴に、オオカミが鹿肉を貯蔵してあります。樵たちはその鹿肉を盗むのです。オオカミの唾液まみれの鹿刺しで、樵たちの宴は、柳田国男ならずとも、耳を傾けたくなる近代熊野民話かもしれません。
兵連治左衛門夫妻
兵連治左衛門氏は、日露戦争を凱旋し、林業経営の傍ら、殺生人となり、オオカミを使って、ハチの母胎を作出した、張本人だったのです。
兵連氏は、同村滝本のやはり資産家の息子、谷瀬三郎氏(ハチの作出者)と猟友になっていた。
当時の小口村で銃を持つ猟師は、兵連治左衛門、谷瀬三郎、上尾義清だった。
上尾義清だけが、猟一筋で生計を立てた玄人殺生人だったという。他の二人は、資産家総領の殺生が道楽にすぎなかったと、最長老が語る。
旧小口村大山部落の兵連家は、現在邸跡だけが遺っています。
同村滝本の谷瀬家も廃屋化し、三郎さんのお孫さんは、色川小学校を十二年前に、定年退職されました。
色川の坂本喜一さんの息子さんは、九年前に他界しました。九十二才でした。口色川の立溝さん(鳴滝ノイチの飼主)は、亡くなられて二十年にもなるでしょうか。
イチを伊勢の二見へ売って、建てた立溝家は、今も居住されています。
二見の渚に打ち上げられていたフグを拾って喰ったイチの最期に、ギリシャ悲劇の趣を感じます。
畝畑の上尾義清さんの弟、功さんは現在九十四才、健在です。義清さんとは、十一才違いだそうですが、戸籍上は従兄弟だと言われました。
毎年、ハチが生まれた谷瀬家の廃屋に、餅としめ縄を持って行くのですが、百年前にハチが幼い頃、飲んだであろう背戸に落ちる水の音だけが、しじまを震わせているのです。
金属技術集団船の甲板に、係留された中型犬たちは、ヤマト列島二万年の狩猟時代を終わらせるミッションを背負って遣って来たのだ。
舳先の波涛の彼方に、聳える伯耆大山はヤマトである。伯耆大山には、良質の砂鉄が堆積していた。
千年後の平安中期、大山の麓に、刀剣鍛造の里が形成された。
鎌倉の刀工、正宗が師と仰いだ伯耆安綱の作刀は、国宝指定である(東京国博所蔵)。
文明とは金属が中軸の文化体系を指す。出雲、吉備、熊野は、金属採掘によって、日本独自の神を創造した鉱脈山河である。
列島金属産地に、犬が体系的に飼われていた。狩猟使役でなければ、如何なる使役次元が存在したのか。
揺るがない仮設がある。鉱脈探査に、山岳の岩盤を、錫枝で突き叩く衝撃に、錫環が発する音波に、犬の聴覚が鉱脈を聴き分ける反応を、読み取る霊感的匠が存在したと言う。
山岳を踏破する修験道に必携の錫杖を撞く姿は、法師か山師か、修験道の歴史は古い。
出雲の安木節を踊るヒョットコ(火男)の泥鰌掬い(土壌掬い)<砂鉄採り>が、ヤマトに国家と言う綱を貫いた。
出雲神話は、ヤマトオロチの脊椎だった草薙の剣(熱田神宮所蔵)に、日本誕生を謳う。
鎌倉以来、武士が魂の拠り所だった日本刀は、国家だったのである。
日本列島金属採掘で栄えた郷土に、犬が体系的に飼われていた史実は、動かない。
近代まで辛うじて、生き遺った地犬は、天然記念物に指定された。
猪は生息できない出雲に、小型(石見犬)が遺ったのは、なぜか。出雲史の条件下では、中型が存在して然るべきではなかったか。不可解な出雲史の印象である。
「山陰犬」と珍島犬との遺伝子近似性を、在来家畜研究会(岐大、名大、京大共同)が、報告している。石見犬は弥生以後に、渡来した可能性は考えられないか。
珍島犬を朝鮮総督府(日本政府)による天然記念物指定調査報告書が、文化庁に保存しているなら、是非閲覧したいものだ。
小型を石器、縄文の概念に、閉じ込めている通念が、覆るかもしれない。疎かにできない小型史観である。
平成二十四年六月二十一日、高野山大学にて、日野西真定教授(仏教民俗学)と、日本犬科学研究室代表、井上百合子(動物考古学)との対談を取材した。テーマは「鉄と犬」に絞られた。以下はその骨子である。
吉野に修験道が発祥したのは、二世紀に遡る。
三世紀の大和に、卑弥呼が三角縁神獣鏡(青銅製)を携えて君臨した。
狩場明神は、金属採掘場の守護神である。犬を曳く狩場明神図(高野山龍光院所蔵)は、犬と金属との関係を証す不動の史料となっている。
渡来の金属技術集団の一行に、犬を神として崇める犬祖族があった。その犬祖族が、雄略天皇に白い犬を奉った。五世紀初頭である。
大和朝廷に犬飼部なる役所が設けられた。紀ノ川堤、現在の奈良県五條市犬飼山がそれである。
余談だが、現代の皇室が紀州犬に皇太子殿下賞の下賜は、朝廷に慈しまれた歴史の名残でしょうか。
かつて、紀宮に飼われていた紀州犬は、和歌山県周参見町が、献上したのだった。
紀ノ川流域の山岳地帯で、犬たちの絢爛たる使役時代に入るのである。
大和国家成立への礎を、犬の聴覚に委ねたテクノロジーが、日本の曙を奏でたのである。
コラム
21世紀の日本犬
KIBA21-2号
♂ H18.11.14 作出 雅狼荘
鎌倉初期以来、紀伊山地の狩猟史が追求した犬の使役機能は、
熊を制御する四肢力と、牙の殺傷力だった。
如何なる極限状況に陥っても、牙の働きを要求した。猟師は至近距離から見ているのである。弓槍を使うのは、まだ後の仕事だった。
牙の衝撃による熊の胆ノウ肥大を待っているのだ。
殺された犬の死体と、重傷を負った犬には止めを刺してやり、熊の餌に置いてきたと言う。熊一頭と犬五頭と換えた結果でも、猟は成り立った史料が遺っている。
古代狩猟研究家、岩田栄之氏は「平然と死に臨む紀州犬の神経は、世界の狩猟史に類を見ない」とコメントを遺した。
紀伊山地の狩猟史体系に、照合するのが、紀州犬であるなら、保存現場における紀州犬の条件としては厳しい。
だが、その資質確認の可能性を、根来の当麻号に見たのである。
弛ませた指に強靭な神経の優しさを奏でる。
優しさと勇猛は表裏をなす紀州犬の神経体系である。
開いた指は情報への適確な反応に備えているのだ。爪はその瞬間のスパイクであることはいうまでもない。指握る緊張は反応を阻害して死傷率に直結する。
被毛剛柔コラボレイトした個体の比重はなぜ軽いのか、駆動に加速が乗らないのだ。
何処かで北国の血を拾った疑いが消えない。
当麻号の単毛性を帯びた個体の比重は、鋭いコーナリングにもさらに乗る加速の保障が、靭い四肢の腱筋にほかならない。
このメカニズムが、熊の動きを制御する四肢力である。
牙の殺傷力は後頭部が司る。
当麻号の後頭部優生発達は、驚異というほかない。脳の容量はオオカミに匹敵する値だろう。この頭蓋骨に欠歯と咬合の歪みは摂理と
して存在しないのだ。
雅狼荘の作出累積を30数年に亘って見てきた。
紀州犬の作出に人生の半分を懸けた男の正体を、いまこの当麻号に見ているのである。
だが、所詮展覧会犬である。紀州犬の実績はない。大臣賞は紀州犬を証明するものでもなければ、犬と会員を集める小道具にすぎない。
展覧会次元で紀州犬が作れるほど、紀伊山地の歴史は極楽浄土ではなかった。
そのことの自覚による雅狼荘40年の道程ではなかったか。
展覧会高評価犬を率き連れて、密かに訓練所通いをしている状況を、訓練所の経営者が伝えてきた。
個体に紀州犬の証を携えていれば、山へ歴史へ還って行ける道筋がまだ遺されているのだ。作出犬にその保険をかける周到さに息を呑む。
当麻号のフルネームを、根来の当麻号と書く。
最近、雅狼荘の作出犬に姓を”根来”と付けるようになった。
この稿では、根来史を拙い知識でも少し考えてみる必要がある。
根来史は抵抗の歴史である。
根来寺建立1132年は平安末期になる。以来、根来山河を侵す力に、徹底抗戦の習性を生み、根来自治の確立に向った。その精神の拠り所
と密教との関係を学習していないが、そのイメージに魅かれる。
秀吉体制には精神哲学がなかった。
秀吉に牙を剥いた根来族への殺戮は凄惨を極めた。女、子供に至るまで、その屍は根来の野に敷きつめたと言うのである。
根来寺の学芸員に質した。「根来は自分の命は自分で守る。つまり、根来は根来で守るという自治防衛精神が、根来史の特長でしょうか」
信長の命を狙って、追いつめて行った雑賀孫市は、根来衆だったと言う研究者もいる。
雑賀族と根来族は、紀ノ川河口と中流域に、勢力を張った豪族なら、さらに上流に遡れば、現在の五條市犬飼町紀ノ川堤には「六世紀だが、ヤマト王権を守る精鋭軍団ハヤトが駐屯していた」五條市立五條博物館長、故 堤氏の報告である。さらにこの「ハヤトに白い犬が飼われていた根跡がある」と付け加えた。
高野山とは目と鼻の先だが、まだ空海は生れていない。
いずれにしても紀ノ川から、中型犬が出土した必然に加え、縄文犬が発掘された。
広汎たる小型犬の分布に、2万年という考古学計測時間の宇宙を眺望するのである。
こういった古代犬の風景を背景に、和歌山市内で生まれた紀州犬の命名を、大和曼陀羅を祀る当麻寺に採ったのだ。
大和二上山麓に、当麻信仰抱くとも、草木も靡いた六甲山麓には、尾を振らなかった北野雅夫は、根来史の中枢を貫いた根来衆の末裔である。根来の遺伝子には夜叉相貌の牙がある。根来の根は深い。
牙の会主宰 井上雄
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