日本犬科学研究室-樫原なう-

ZIN 日本犬科学研究室
那智勝浦町色川樫原
TARO 人を犬に問う 自然史・文化史

樫原なう

「新たなる旅立ち」
2024.7/23大安
山の生活第1131日。
息子は、自然児とその母を率いて北を目指す。あたかもグレン・グールドの北帰行のように。
娘は、南島つたいで南に憧れ行く。あたかもレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」のように。
那智山系の樫原で、私は、
岩石や木々と日々巡り、
自然犬の誕生を夢見ている。



立夏のまたの日の暁の夢〜ロイヤルコンセルトヘボウのクラウスマケラ・グレングールドの愛犬〜滝本の愛犬
2024.5/6
山の生活第1053日。
暁天に、
つけっぱなしで寝入った衛星放送から、
柔らかく立ち上るエロイカが聞こえてきた。
円形の天井に垂直に音が立ち上るアムステルダムのコンセルトヘボウで指揮する北欧の指揮者クラウスマケラの音楽性に、私は、
若き日のグレン・グールドのポートレイトを思い浮かべた。
カナダの森の中で愛犬と共に音楽を紡いだ
グレン・グールドは、
母方から作曲家グリークの血を受け継いでいると知った。
滝本の愛犬「滝」と山の時を過ごす私にも
多分北回りの遺伝子が幾分か流れていると
暁の夢のなかで想った。



「ルリミノキの瑠璃-マリア様のサファイア-吉野ケ里のガラス管玉のダイアデム-タンザナイト-『アフリカの日々』の夕景」
2023.11/23~2024.3/20
山の生活第888日〜第1007日。
待降節も間近い日、
森に住むカトリックの女性は、
ルリミノキの青に
幼い日聞いた聖歌の中の
マリアさまのサファイアを想った。
古代の朱と青への
憧憬の源を思い巡らしていたわたしは、
吉野ケ里遺跡1002号甕棺墓の中から
水銀朱と有柄把頭飾銅剣とともに出土した
スカイブルーのガラス管玉を想った。
族長のレガリアの銅剣と
ダイアデム型王冠。
後者は、中国由来の素材を
朝鮮半島で製作したと推理されている
宝石に勝る財宝という。
山の生活が1000日を超え春分の日を迎えた。
人が権威ではなく
純粋に青に惹かれたのは
何時だったのだろう。
「タンザニアの夜」とティファニーが名付けた
タンザナイトの色を思い浮かべた。
精神医学者ホロビンの
人類知-宿命の遺伝子探求の旅は、
医学生としてナイロビ滞在をしていた1970年7月の午後から夜にかけてのドライブではじまった。
彼は、オックスフォードで人類進化の権威ルグロス・クラークに勧められて、オロルゲサイリの発掘現場を訪ねたのだ。
10年後ナイロビ初の医学校開設に教授として赴任した。そこで教えていた「トゥルカナ・ボーイ」の発見者アラン・ウォーカーの研究室は廊下の先に有った。
ンゴングヒルズの先にある大地溝帯。
『アフリカの日々』のディネーセンも
広大なコーヒー園から遥か南のキリマンジャロを臨んだことだろう。
淡い青からすみれ色に変化する
タンザナイトの夕景に引き付けられ、
嘆息したのは、彼等だけではない。
大地溝帯を巡り歩く化石人類もまた
何かの引力に引き付けられていたのだろう。
「ここが私の居るべき場所」と
ディネーセンに言わしめた
奇しき力に引かれて。



「カイロス、土、マグマ」
2024.3/13
山の生活第1000日。
山の生活の最初の千日は、
山居の為の準備に終始した。
カイロスの打ち上げを待つ。
樫原須川邸の大老杉を背にし、
南方の串本の海を見遥かして。
イカロスならぬカイロスは
次回に期待する結果だった。
そのまま樫原道を滝本まで下ると、
眼前に大雲取の山塊が姿を現した。
夕暮れ、滝本ヘルパーの仕事を終えて
県道を上っていく。
咲き匂う山桜の背後に
マグマの存在を示す岩石柱を身に付けた
女将のような宝泉岳が
にこやかに語りかける。
「空の青、土、岩石があなたの宇宙だよ」と。



「神武東征の烏と鵄、樫原〜滝本のカラスとトンビ」
2024.2/22
山の生活第980日。
2/22木曜日深夜の雷鳴と強雨。樫原から滝本集落に入る直前の県道の崖が崩れた。
滝本ヘルパーの私は、町境のお地蔵さんの祠から伊勢の天照大神を勧請した大神宮さんを結ぶ旧道を降りて行く。
樫原のマイカラスは、
山の木立を下りる私を見守り
時おり鳴き声を立てて付いて来る。
滝本の開けた山の空間に出ると
トンビが上空を舞って餌を待っている。
神武記の高木の神の烏、神武紀の磯城の鵄を想い描く。



「アナグマのアナちゃん冬眠から目覚める」
2024.2/28
山の生活第986日。
山柿を籠に沢山並べていた樫原奥の家にノソノソ寄宿していたアナちゃんは、
12月初めから姿を見せなくなった。
アナグマも冬眠すると図鑑で読んで納得した。
2/28滝本の田圃の広い区画の真ん中に
アナグマが陽光を浴びて何やらエサを食べていた。アナちゃんと直感した。
去年の4月、
すっかり大人の毛並みになった
樫原奥の家の回りの山に居る万ちゃんが、
滝本〜樫原の中腹でアナちゃんを追っていた。
獲物ではなく、多分遊び仲間として。
少しずつ登ってきて、
今年の秋には、樫原奥まで移動するのだろうか?待っているよ、アナちゃん



「雛祭りを桑抹茶・鬱金・梅餅・金胡麻・小豆餡で祝う
2024.3/3大安
山の生活第990日。
山の生活第1000日まであと10日の
カウントダウン。
その日までに、
去年11月7日山の日からストップしていた
投稿のギャップを埋めたい
雛の節句に身近な材料で緑・黄・桃の三色餅を作った



「山の神祭の日にかつての森番の人来訪」
2023.11/7
山の生活第872日。
山まつりの日は、林業に携わる人は、山に入らない。
森林組合で長く勤め、定年退職後大分に移り住んだ人が、手製のブルベリーのジャムと柚子胡椒をお土産に来訪された。かつて山まつりの日は、仕事に着かず勝浦のホテルで祝盃を上げた人も、今日が山まつりの日だとは思わずに、同窓会で帰郷したのだ、と言った。
手土産の柚子胡椒の黄と赤の色に魅せられて、さっそく真似てみた。
山まつりの伝承は、全国で多系統有るが、
那智勝浦町から古座川町の山間部は、
2月7日と11月7日、
春は木種を撒き、
秋は木種を拾う或いは、樹の数を数える
山の神の邪魔をせぬよう、
山入を忌む。
この伝承は、琵琶湖の西や北の里と山の境界ー山ノ口でみられるという(萩原秀三郎、1988年、眼でみる民俗神シリーズ 第1巻 『山と森の神 』、46頁)。
樫原の奥の県道から延命寺跡へ降りていく道すがらに有る
松の大木のもとの山の神様に
一升瓶をお供えしていた林業人の姿を思い出した。



「滝本・筆薮の滝ピクニックと犬友からの電話」
2023. 11/3文化の日
山の生活第868日。
滝本の地縁で80代、70代、60代、50代の女性4人で滝本の数有る滝の内、北谷の「筆薮の滝」小ピクニックをした。
その滝は、大雲取の岩塊の傍らに静かに佇んでいた。
樫原に帰って、約束していた犬友からの電話を受けた。
2000年に古座川町七川奥の添野川から那智山系の宝泉岳のこの地へ移動する時にお世話になって以来の時間をうめる、ながいながい電話。
彼女を介して、
龍神奥青田に娘の誕生祝いに来てくださった東灘から那須へ移られた老御夫妻の犬友の35年間のご様子も聞くことが出来た。
この想像を絶する時空は、3時間の電話で鮮やかに蘇った。



「朝熊竜胆に導かれ、樫原狩場神社へ」
2023.11/2
山の生活第867日。
アサマリンドウは、三重県朝熊山で発見されたのでその名が有るという。
九州から四国伊勢の奥山へと連なる照葉樹林の山岳を象徴するような青紫の灯明の列は、樫原の奥から深瀬大明神といわれた色川神社に連なっている。
樫原の狩場刑部左衛門の神社の成美に色川小学校の3・4年生一行11人が来訪。
15世紀の武将が山賊退治に出撃した道筋や寺山の立ち会い権を褒美にもらった恩恵などを皆で懐古した。
餅まきの代わりは、滝本高倉神社境内の柿の実と小最中などのお菓子袋だった。



2023.9/13 大安
家人のスピリチュアル・フライト 〜後日編〜
(2023.7/24~8/3)
2枚のCDから連想する
蔓または遺伝子の枝葉の拡がり
7/25 柩の家人を樫原に安置して私と娘が山を留守にしていた合間に、
ペルー人の青年の来訪が有った。
彼は、鉄屑拾いにトラックで回ってくる。
その感性は、ナイーブで、
沖縄に祖母が居ると言っていた。
人や犬に優しい青年が、家人に手を合掌した。
インカ王国の王女物語のオペレッタのために1913年に採譜された民謡に歌詞をつけた
サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」の1972年のレーベルを、
樫原にかえってきた初めのひとつき
家人は、繰返し聞いて過ごした。
家人に取ってそのケーナの音色は、
故郷の印南祭りの笛の音に通じるものだった。樫原山岳の虚空を舞うのはコンドルならぬトビではあったが。
8/3 別府在住の狩猟家・釘宮正博氏が、畝畑のN氏宅に作出犬の様子を見に来た道すがら
偶然樫原に立ち寄られた。
氏は石原謙先生の孫弟子と、自己紹介された。
1988年制作『紀州犬の牙』をDVDにしたものを進呈した。氏は、すでに1988年版を持っておられた。
石原謙先生の最後の弟子、と家人は、
よく言っていた。
播州石原城主の末裔で下里に婿にきてからも
石原姓を名乗り、同郷の佐藤春夫を乗せて
騎馬で新宮中学に通ったという
豪快な青年狩猟家で、
晩年、古い紀州犬の蔓を遺すために奔走され、
大正7,8年頃の即ち百年以上前の有色紀州犬の蔓を求め、現在の枝葉を開かせた人だ。
釘宮氏が帰られた後、家人の資料を探した。
石原謙先生の印のある手書きの血統書コピーが2通出てきた。
紀州三大名犬として
保存会員には伝説となっている犬のうち
色川・鳴滝のイチを父系に
畝畑・義清の鉄を母系にした
血統書は、まさにDNA系統樹の赴きだった。
石原氏の猟友・九州大牟田在住の
田河氏を師と仰ぎ、
鳴滝のイチから11代目の田河のイチの蔓を
さらに拡げた14代目の熊五郎は、
北海道羅臼の中川正裕氏のもとに飛んだと、
甲斐崎圭氏の『紀州犬〜生き残った名犬の血』で知った。
中川氏が、北限の地で紀州犬の猟能を求めたのは、龍神村安井での猟能大会をメインにした
家人制作の『紀州犬の牙』が切っ掛けだった。



2023.9/11
山の生活第815日。
二百二十日。
乱気流の雷・強雨の日が続く。
樫原奥で姿が見えないものは、
シカとサル。
滝本道に姿を現したものは、
ゴトビキとイノシシ。
早くもうっすら色づき始めた渋柿20個を取らせてもらった。
豊作で早生の今年は、
干柿がうまく出来ないやろから、
取ってもかまんよ、
と滝本の人が言ってくれた。
甕にその日のうちに仕込み柿渋に、
ヘタ・枝葉は、お茶に、
小片は、瓶で発酵中だ。



2023.9/9 重陽の日
山の生活第813日。
重陽の節句の願い
菊の花びらを浮かべた酒杯をあおる時に願をかけると叶うのだ、と沖縄の娘は言った。
滝本・宝竜の滝の水際に浮かぶ栃葉に
願をかける。
日本犬資料誌『牙』3・4号のオンライン、
野生イヌのオオカミ型中で在来犬を視る、
貨幣経済に売り渡さない山居の生活。
47個の栃の実は、
17個を良薬に、
あとの30個は、樫原の山に。



2023.9/7 大安
山の生活第811日。
家人のスピリチュアル・フライト〜後編〜(2023.7/12~8/3)
7/24逝去の家人の一人称で綴ります。
7/28 沖縄に帰る娘と一緒に樫原を降りる。
西部開拓時代を思わせる駅舎を上ると
懐かしいホームに黒潮号が入船して来た。
家内が元気に手を振って見送ってくれた。
約束通り、娘は、車窓から、
印南の八幡さんの鳥居を拝んでくれた。
祭りに行けない時も黒潮号で通過する時は、
鳥居を目当てに手を合わせたものだ。
関空からの娘の那覇へのフライトを見送り、
山岳を槍ヶ岳カールを目指してフライトする。
通夜が明けた7/25の朝、
息子は、長野の妻子のもとに帰っていった。
病室の最後の朝の枕元で、息子は、
生まれてくる次男の名は、
生命の溌剌さを象徴する
樹木の芽吹きに因んで付けようと、
家内に語った。家内は、息子に、私が
次男の顔は見ることはないだろう、と、
語っていたことを伝えた。
穂高岳の麓で
北安曇野の田圃の中に建つ
レンガ造りのようなアパートは、
上空からでもよく目立っていた。
にこやかに寛ぐ親子の姿に安心した。
7/30 息子家族は、緑の山道を
鈴の付いた杖をついて歩く。
初めは、息子と長男が、
くの字がたの杖にすがって歩く。
長男は、疲れて父に肩車してもらったり。
おやおや、
特徴のある杖は途中で交換したらしい。
次男の宿る母が
今度はその杖をついている。私も同行する。
7/31 明け方次男が誕生した。
予定日よりひとつき以上早くに。
心充たされて、私は、
樫原の山岳にもどった。



2023.8/30沖縄旧盆先祖送りの日。
山の生活第803日。
旧暦7/15の満月は雲隠れしているが、
我が家の諸精霊を心のなかで送りながら、
この文を綴る。7/24逝去の家人の一人称で。
家人のスピリチュアルフライト〜中編〜
(2023.7/12~8/3)
7/27 明日は沖縄へ帰っていく娘に託して朝7時前に樫原の奥の家を出発する。
町境の谷は、大雨で表土が流れて
宝泉岳の岩盤が露出し、
鎌塚の急斜面は、
木質バイオマスの伐採でくねるカーブが
露呈していた。
小雲取越えの橋のたもとに、
家の万ちゃんと同胎の牝が生き延びて居る、と、家内が興奮して言っていたが、今日は姿を見せなかった。
中辺路の賑わいを想わせる近露のドライブインを起点としていざ龍神へ。
田辺から龍神へは、虎ケ峰を越えていく。
其処で野犬の女頭領だった地犬を保護してきた。トラちゃんは、娘が生まれる直前の1988年6月~1998年10月までともに過ごした深い陰影を持つ犬だった。
娘が昼食処に選んだのは、
龍神村の南端の福井のドライブインだった。
嗚呼、日高川本流から別れ切目川を下れば、故郷の印南に行けるのだ。
一族の要として生きた祖母つ子(つね)は、
切目川を降りて本郷に嫁いだ。
龍神村安井で、
日高川左岸にある若者広場に寄る。
娘が生まれて間もない秋晴れの日の
紀州犬猟能大会のロケ日に聳えていた体育館の屋根は、35年を経て修復中だった。
鉄若、迫雲といった紀州犬の華やかな猟能も昔の夢と消えた。
皆瀬神社が近づくと胸が締め付けられる。
この水呑場で、餌を貰いにか山から出て来て、始めての換毛を簑のように背負ったシバ犬と出会った。
龍神から、神(ジン)と呼んだが、途中でターちゃんに変わった家内の最愛の犬で、
1998年9/19に亡くなった。
今は、30個体となった
日本犬科学研究室の保存犬第1号だ。
高野龍神スカイラインの入り口の
大熊小学校跡地で激しい雷雨となる。
稲妻の中、35年前の運動会の光景がよぎる。
以仁王以来の源氏の隠里・青田の家で
子供たちは、生まれた。
宮参りのつもりで上った高野山奥の院の石畳を

今35才の娘と歩く。
四国八十八ヵ所の石仏が並んでいた。
夕暮れ迫るなか、娘は、果敢にも、
密教宇宙への入り口高野山大門を出て、
かつらぎ町天野の世界文化遺産
丹生都比売神社を目指す。
全国380近い丹生総本社にたどり着いた時、
残照の雲が、竜や犬の形に目に映った。
宮参りと言えば、龍神東の丹生神社の白い鳥居が脳裏に浮かぶ。だが、ここは、その総本社。
天野の里の静寂は、密教宇宙以前の
出雲世界を感じさせた。
今日の旅の終着点は、家内の
金属鉱脈と犬の視点の出発点となるだろう。
令和3年7/7のニュースで、
古くからの丹生祝文に倣って、
2頭の紀州犬が奉納された、と、聞いた。
夕暮れのなか、里に人影は無いが、
シバ犬らしい咆哮が幽かに響いた。
樫原を滝本方向に降りて、
18時間400キロの旅の果てに
新宮から登って帰り着いた樫原には、
古来一族の間で魂の帰る場所と言われてきた
子の星(北極星)が瞬いていた



2023.8/15
山の生活第788日。
お盆台風7号の贈り物
お盆の午後、
台風による停電も復旧した。
奥の家から直登で宝泉岳への斜面を上ると、
貯水槽の回りに、ウツギに絡んだアケビ棚ができていた。
強風で飛ばされたミズナラの枝に、青いドングリが実っていた。
明日は、旧暦の7月1日、まさに秋の3か月が始まる。



2023.8/11 山の日
山の生活第784日。
家人のスピリチュアル・フライト(2023.7/12~8/11) 〜 前編〜
7/24 10:20逝去した家人の一人称で
最期の一月の魂の遍歴をメモしました。
7/12 朝目覚めると、湯の山にいた。
若い頃、そこで三重県大内山系の紀州犬や、
静という美しい柴犬を飼っていた。
夕方には、故郷の印南の本郷に行った。本家の長兄の長男は、2年前に無くなっていた。30年前の印南祭りが懐かしかった。
7/13 家内がここはどこ?と、聞く。
もう樫原に戻った、というと、
家内はほっとした顔をした。
7/13~7/20 サンマの味醂干し、鹿肉刺身、生ビールで露命を繋ぐ。
7/21 深夜からしきりと家内を呼んだ。口から出る用事のなかには、頭の方向を変えてとか、フラットな畳のうえに移動させてとか、
どだい無理なものもあって家内を絶叫させた。
6:30下血を見て家内は、救急搬送を要請した。
9:30ドクターヘリで色川・籠から、三輪崎・佐野へ飛び医療センターの4階の病室に入った。
10:00 医師からの連絡が入り、
娘が沖縄を出発する決心をする。
もしかしたら、この一月知らず知らずテレパシーを送っていたのかも知れなかった。
娘は、和歌山の様々な光景が浮かび、帰郷をしなければと促されていたようだったし、
那覇のマンションを出ると蝶々が纏わりついたとも、言っていた。
7/22 1:30 娘と息子が一緒に着いた。
何故名古屋経由で来たんかね、遠回りでワケわからんと言うと、名古屋空港についたからだよ、父さんと、懐かしい娘の声がした。子どものころと変わらぬ口調に戻っていた。
午後、娘は、浜の宮、丹敷の湯辺りを散歩した。
那智浜の藤棚が満開だった頃、
皆でバーチャルな結婚式を挙げたね、コロナで部屋から出られなかった沖縄と兵庫の新郎・新婦を結んで。
浜の宮の楠の大木は、補陀落渡海の南方への海流を、見まもって居たろうね。
7/23 娘と息子は付き添う合間を縫って那智の滝へ行ったり、古座川奥にいた頃から良く通った湯川の湯に入ったりした。
7/24 10時13分心拍停止。樫原に準備に行っていた家内が戻り、ワゴンに乗って樫原の奥に横になった。南面して山が良く見える。
7/25 娘と家内は火葬の準備に下へ降りていった。役場を出て、二人は、本籍地波田須のことで熊野市まで走った。
家内は、36年前の3/31、代々木の実家で生まれた柴犬保存会の柴犬梵天を連れて熊野市に来たのだった。
帰途、湯川海岸でハマボウとユリを摘んできてくれた。
7/26 7:34 クチナシの芳香、ヒオウギ、ユリ、ハマボウの紫香に包まれて天満の火葬場に行く。この古色蒼然とした火葬場は、9/30には、その役目を終わるのだそうだ。
西中野川林道に上がり、永興禅師の祠の前を通って樫原へ戻った。



2023.8/2
山の生活第775日。
2023年夏の土用に

7/18火曜日。
土用入りを2日後に控えた朝、ふと思いたち梅の土用干しをする。昼前、嫁いでから初めてと言って、樫原の延命寺倶楽部のすぐ上の生家跡を訪ねて、太地から老夫妻の来訪が有り、樫原の奥の家の岩陰で弁当を開いて休んで行かれた。帰り際、また来ます、梅の良い香りがしますねと言って樫原を降りていかれた。置いていって下さったコンビニ特製のソフトなエビせんを家人が美味しそうに食べた。
7/21金曜日。
深夜1時過ぎから、何度となくダイニングの隅で横になっている私を家人が呼ぶ。途切れなく用事を言う。明け方には、堪忍袋の緒が切れ、大声で叫んでしまったのは、引導を渡すときの"かあーつ"だったのかもしれない。早朝6:30初めての下血をみて7時に救急車を呼ぶ。隊員が途中でドクターヘリを要請してくれ、9時過ぎ籠から、新宮市医療センターにヘリにて搬送される。多血症から長年推移した結果の骨髄腺維症末期で、内視鏡検査の及ばない小腸内での出血であと数時間かもしれない危篤状態だった。

7/22土曜日。
深夜1:30。
那覇から名古屋空港に降り立った娘と長野から乗用車で来た息子が合流して到着する頃と知って、家人は、時間外出入口まで私を迎えに行かせた。夜が明け、三輪崎の海の見える病室で、熱帯のマンゴーを子供たちが家人にスプーンで食べさせた。家人の最期の食べ物は、那覇のマンションの廊下で家に成った小さい実を娘が偶然貰ったものだった。
2時間交代での看取りの合間を縫い、私は樫原・滝本へ、娘は、那智駅の丹敷の湯へ。病院から搬出して樫原の奥の家までの搬送・棺の準備を籠のT氏が引き受けて下さり、ケアマネジャーのM氏は、介護レンタル用品を玄関前に搬出、青ビニールシートできれいに括って下さった。その作業中、樫原の奥の家からの棺の搬出の下見に町の火葬場の職員の方が来て下さったそうだ。居室が通夜の席となる設えが出来た。

7/23日曜日。
下血も止り、血圧は70を何とかキープするが、言葉も少なくなる。小康状態でも今日で最期の予感があり、各所にこれからの段取り等連絡する。日中、娘は、那智の滝の飛龍神社に参拝した。ここで那智の滝を仰ぎ、1987年・2020年家人と私、息子夫婦も結婚の報告に参拝した。娘・息子は、昔よく行った湯川のきよもん湯につかり、勝浦で夕食を取り、息子は、病室に、私は、4階の海山のパノラマのデイルームの病室に近い一角に、娘は、車中に泊まった。

7/24月曜日。
早朝、日の出のパノラマを見ながら、自然と涙が流れる。病室の息子と、家人のこめかみから頬骨がやけに浮き出ている寝顔越しに、窓の景色を見ながら、ドイツのシュタイナー教育を実践する幼稚園に通い出した孫や息子家族の生き方などを話す。家人は、頭を二人の声のする方に傾け穏やかな顔をして楽しんで聞いているかのようだった。
看取りを託して樫原・滝本へ行っている10:13心停止、医師より10:20死亡宣告。
14:00医療センターをT氏夫妻と私達家族が車4台で南平野、口色川、大野、籠と山裾をめぐり、樫原に到着し、布団に寝かせた後、納棺。
供え物をして三人で思い出話などをしながら、ビールとお寿司で夜を過ごす。

7/25火曜日。
早朝、臨月間近の妻子のもとへ、息子は帰途についた。
9時前に、火葬手続きに役場に向けて山を下りる。その後、娘のパスポート更新の為、本籍地のある熊野市役所に出向く。徐福上陸の地とも言われる波田須の岩礁のリアス式海岸の細い谷で家人は、犬を飼い、中上健次の『火祭り』のロケ地ともなった。
初めて、イザナミの葬られたという『花の窟』に行った。神話世界伊勢路の風光に感激する。

7/26水曜日。
遠路を思って、町の火葬場の車が7:30に迎えに来て、出棺。棺には、窓辺の盆一杯の八重のクチナシ・庭のヒオウギ・昨日湯川の海岸で刈ったハマゴウの紫のはな・鉄砲百合のつぼみを敷き詰めた。籠から、田垣内の道を太田に下り、自動車道を走って、天満の火葬場に到着。今年9/30で閉鎖となる火葬場の上昇気流やその先の雲を眺めながら待つ。骨壺へ各部位を確めながら、長骨から骨粉まで家人の個体を殆んど全て納めた。帰りは、西中野川林道を通った。

7/27木曜日。
7:00前に出発し、私達家族の36年の軌跡を辿る18時間400qのドライブをした。滝本道を下り、本宮〜龍神〜高野山奥の院〜大門〜天野丹生都姫神社〜野迫川十津川経由新宮〜井関から上って樫原に明けて深夜1時帰宅。自由になった家人の意思の赴くままに、また、私や娘の過去・現在・未來を凝縮したかのような示唆に富んだ18時間のドライブだった。

7/28金曜日。
10時太地駅から、娘は、沖縄へ帰っていった。

7/31月曜日。
夕方滝本から樫原の奥の家に戻りふと見ると、携帯のデスクトップに娘の "おめでとう" の文字。息子がLINEで知らせてきた。
明け方次男芽吹誕生、と。
家人は、直感で9/5予定日の孫の顔を見ることは無いだろうと、言っていた。
早産だったが、母子ともに無事。胎内で良く育って元気な赤子の顔を見て、家人の生まれ変わりのように感じた。

8/2水曜日。
私にとっての熊野導き犬族だった家人の場所が空き、真ん中に私が入り、回りにトンビ・カラス・イヌ・シカたちが陣取る新しい配置に満足しながら、粗食を取り、豊作だった梅仕事の仕上げをする。析出したザルツの輝きに夜露の雫が降るだろう。
夏の土用が過ぎれば、つぎの朝は、立秋だ。




2023.7/7
山の生活第749日。
クチナシの匂う夕べに
樫原の奥の家の窓辺の
八重のクチナシの大輪が、
夕べの微風に乗せて、
傍を通る私に芳香を届けてくれた。
その風は、46年前、
院生の私に
美術出版の編集者が、
デートの帰り道の間垣に咲く
白い花を、
手折って示してくれた
恋心を思い出させた。
二月の短い淡い恋。
1823年7月7日。
ヨーロッパをあとにして9ヵ月、
大洋上で5ヵ月を過ごし目的地バタビアに到達したのち、
シーボルトの乗った帆船は、
もっとも遠い東方の
長崎出島へと舵取りをし、
錫鉱山で名高いバンカ島の要塞の
3日間の停泊を経て、本格的に帆走を始めた。
その1ヶ月後、1823年8月7日、
シーボルトが汽車や郵便車の陸の旅になぞらえた商船の旅は、終着駅間近となる。
前々日の嵐が去り、清々しい南南東の風に変わって、長崎港に入るための標識点・野母岬を見出す。
1435年没と伝えられる平家の血筋を引く武人
上総五郎兵衛盛清の遺徳を讃え、
樫原の地に王子権現の祠を建て、
色川郷18カ村の郷民が、
狩場刑部左衛門を偲ぶ神事を、
7月7日に行うようになったという。
王子社は、狩場の川のほとりから、大正年間に樫原の南の入り口の山上に移し祀られ、
11月1日に例祭が行われる。
今年3年振りとなる例祭の朝は、
もしかしたら、下の谷からの谷風に乗って、
雲海が山上の社に
登ってくるかもしれない。
7月7日の夕暮れ、
八重のクチナシの薫りに誘われて、
連想した。
さらに、次の2点を自分に言い聞かせた。
日本犬資料誌『牙』3号を書き進める。
シーボルトの連れ帰った長崎出島近辺の犬は、
3頭だったのか?サクラ、シロは形跡があるが、アカは?
1988年の『シーボルトと日本』展のカタログ99頁には、ライデン自然史博には、
日本狼の頭骨が4個保管されているとあるが、
第四の頭骨とは?
それらを論証するため、
200年ぶりに出島に里帰りするシーボルトの精神とともに半年を過ごそうと想う。
かねてからの課題≪金属鉱脈と犬≫について、樫原の伝説をフィールドにした論考を
『牙』4号として掲載していく。



2023.7/6
山の生活第748日。
梅雨晴れに
昨日お借りした傘を干し、
クワ、ヤマモモ、クサギの葉を干す。
カメ、イヌたちも甲羅干し。
沖縄の娘、長野の息子家族も日差しを楽しむ。



2023.5/31
山の生活第712日。
サルナシの花
夏至の前に5月31日に日長の頂点を感じてしまう癖は、若いころからだ。凋落の兆しを早感じるのだ。
今夕も台風と梅雨入りの陰鬱な空に僅かの日の光を追って、小麦峠を少し降りていった。
ウツギの白い花影にサルナシの花房を見つけた。



2023.4/27
山の生活第678日。
五月晴れの滝本にて。
空の巻層雲を仰ぐと、地球号の公転を感じる。時は、季節を巡り、螺旋状に上昇していく。
滝本・北谷川の対岸の、
季節のシンフォニーは、
藤の花から椎の花へと
主題を移して響き渡る。
樫原から同行してくれたマイカラスは、
一羽。
ツガイのかたわれは、
子育て中なのだ。



2023.4/22
山の生活第673日。
アケビの花から藤の花へ
葉桜からアケビの満開の花の芳香が、山に漂う季節となり、
今、樫原でも、
杉の大木の藤の垂花が観られるようになった。
5月の予感だ。



2023.4/3
山の生活第654日。
昨日、
娘は、沖縄で暮らし始めて
満16年の記念日に、
沖縄芸能の活動の縁で広がった地・会津の
起き上がり小法師を掌にのせた写真を
アップしていた。
今日、娘は、偉大な芸術家を偲んでその音楽に聞き入っていた。
山岳の彼方・海洋の彼方へと
飛翔することを願い、
子供達を色川の地上から見送った日が、
昨日のことのように感じられる。
16年の歳月を噛み締めながら、
老いた母は、
樫原の山岳を終焉の地と定めている。



2023.3/24
山の生活第644日。
春の宵。
滝本に降りて、
桜に陶酔。
二羽のマイカラスも
樫原奥から同行してくれた。
滝本滝ちゃんもまだ待っててくれた。
これが、幸せと言うもの



2023.3/1
山の生活第621日。
狩場ノ川から倉橋川にワープさらに忍阪山へ
色川の歴史研究会に同行させてもらい、
樫原奥から狩場ノ川源流へ降り、
狩場刑部左衛門の故地を目指して
何回も飛び石を踏んで川を渡った。
そのうちに、ふと、
万葉集の旋頭歌の一節が浮かび、私は、
「おざかりに、我が渡りてし、いわの橋はも」と、くちづさんだ。
桜井市南東部の倉橋川を歌った旋頭歌で、
ロンド風の旋律に乗って歌唱された民謡を
柿本人麻呂が採集したものらしい。
倉橋山の姿をスマホで探した。その威容に見惚れた。
しかもその中腹に中臣氏縁の多武峰があり、
多武峰鉱山のルビーのような
辰砂鉱石の写真を見て、
ニウツヒメ・箸墓・ヒミコへと
イメージが飛んでいった。
さらに桜井市をみはるかする忍阪山からのスケッチの画像を見た時、辰砂や朱を採掘する古代の豪族の本拠地をみはるかした思いがした。
万葉集のやはり民謡風の長歌に
「・・・青幡のオサカの山は、・・惜たらしき山の荒れまく惜しも」と唱われ、
金属抽出の為に緑麗しい山が伐採され、
荒廃していくことを嘆いた
この歌の舞台は、
忍阪の山ではなかったか?
そのオサカの山からの風景の
正面に描かれた二上山は、
名誉を回復された大津皇子が
山上に奉られた所で、
同母の弟の鎮魂には、大伯皇女が岩肌に咲く
馬酔木を捧げた。
持統三年三月の事であるらしい。
今、三月、現世の伐採された岩肌に、鹿も食べられない毒性の故に咲き誇る馬酔木の光景は、遥か古代からの投射なのではなかろうか?



2023.2/13
山の生活第604日。
下総国府の犬
2/11朝日新聞デジタル記事をスマホで見て
39年前にタイムスリップした。
下総国府の一角に位置する須和田遺跡から
1984年に出土した犬骨11個体のうち
7個体について、
金沢大学の覚張隆史助教により
骨からの核ゲノムが抽出され、
耳形、尾形、毛色まで分かった、
というのである。
40年程前、津田沼駅から私鉄に乗り換え
山路学芸員を訪ねるべく
とぼとぼ歩いて行った我後ろ姿が浮かんだ。
遺存骨や歯牙から、外部形態や病理が観察出来ても、取り分け被毛の色は分からなかった。
野生型のほか、うすい黄色のイエロー型も
存在したという。
そしてうすい貝層に挟まれ、
極短期間の間に埋存したと思われる7頭に
類縁関係が無かったことも、今回のDNA解析でわかった、と言う。
10年前に高野山大学の教授であった
老僧から、
江戸時代まで高野山の狩場明神社の飼犬は、
血縁関係が無いことと定められていた、
と聞いたことを思い出した。
記事でも触れていた長屋王の
「犬6頭、米6合」と書かれた木簡も
眼に浮かんだ。
大阪の亀井遺跡の埋存犬の被毛が、
どんな色だったか、解明されたら、
どんなにか感激するだろう、
と、思いを巡らした。
熊野の山岳から40年を飛び越えて、
思いを馳せた昨日今日だった。



2023.1/28
山の生活第588日。
滝本道を猟犬と登る
滝本下地のKさんの飼犬
滝号は、14歳のオスの猟犬である。
50日ぐらい前から
8キロ以上の道を樫原まで上ってくるようになった。
最強寒波でヘルパー仕事に徒歩で出掛けた
帰り道の雪道を、
今日は、タキちゃんが樫原まで送ってくれた。
ヒトの進路を確認しながら、
谷側や山側とループをつくって進む。
老猟犬の面目躍如だった。



2022.12/8
山の生活第537日。
成道会の朝・樫原にて
日本独自の伝承という
釈迦の悟りを開いた日の法要の朝の目覚めに、
出島復元整備室山口美由紀・カメラマンヤマグチカツミ夫妻の
『旅する出島』(長崎文献社)のポートレイトに見入る。
その本の巻末には、
ライデン自然史博物館所蔵の
シーボルトがもたらした
ヤマイヌ・オオカミ・三頭の犬のスケッチ画を
ナチュラリスで調査してくださり、
MAILで送って下さった、
マティ・フォラー氏と、
この本の著者山口美由紀氏が、
出島への出港地・テセル島の渚に立つ写真が
掲載されていた。
シーボルトハウスのフォラー邦子氏が、私の
日本犬資料誌『牙』No.3を書いていこうとするきっかけを作ってくださった。
シーボルト記念館の徳永宏氏の送って下さった
マイクロフィルム複写資料のなかに、
1860年シーボルトが蘭文で書いた「シーボルト日本博物館展示品解説」の冒頭にviuの名が読み取れた。出島でのサクラの呼び名と私は、推察している。
成道会の朝に
シーボルトのイヌ達との邂逅を得たことに
感謝を捧げる。
那智山系の宝泉岳の中腹の樫原まで、
滝本から、10キロの道を毎朝上ってくる
滝本のタキちゃんがそろそろ迎えに来るだろう。一緒に滝本へ降りていこうと誘いに。



2022.11/1
山の生活第500日。
狩場神社のセンブリの花
樫原の狩場神社の例祭は、
今年も中止とした。
日置川から、ヒトツメタタラ退治に
招聘されたという中世の武将、
刑部左衛門さんも、
那智山系色川奥の此の樫原の地を、
人の世の穢から守ることを
わかって下さるだろう。
不思議と例祭に花をつける
センブリがひとり
境内を守ってくれていた。



2022.10/25
山の生活第493日。
初冬を迎える
旧暦10月1日。
8/12にシーボルトのオオカミ・ヤマイヌ・飼い犬サクラ・シロ・アカの資料を秋のうちに集めようと思い立って今日冬の入り口に立った。
これから旧暦冬の3か月という期限を切って
日本犬資料誌『牙』3号の
紙面を充たして行こうと
決意を胸に散歩すると、
奥の家の南の大きな岩塊に
リンドウの花が小さな灯りを
点してくれていた。



2022.10/16
山の生活第484日。
浜の宮のムクロジ
朝、那智駅に用事で出向き、思い立って国道を渡って浜の宮に詣でた。鳥居を潜ろうとして大きな黄色い実が落ちて居るのに気づいた。向かって右手には、樹齢800年の大楠がある。ひだりての老樹を見上げると、黄色い実の房も有った。ムクロジとすぐ判ったので沢山広い集めた。サポニンは、泡立って、昔の人の洗濯に役立ったそうだ。樫原で試す積もり。



2022.10/1
山の生活第469日。
椎の実豊作?
滝本の人から今年は、本宮の方では、椎の実がどっさり成っている、と、聞いた。
西中野川林道を勝浦へと降りる途中、屋敷跡の椎の木を見上げた。豊作を祈った。



研究と資料
研究者近況
2022.9/4
山の生活第441日。
恩師の命日・紀伊半島大水害
台風が接近する沖縄で、
恩師の11回目の命日を
娘は善光寺で買った線香を焚いて
過ごしたと言う。
15年前の早春、只一度娘と訪れた久高島は、
11年前の紀伊半島大水害の同日、
娘の恩師が波乗り中に海に召された日だった。
那智勝浦町の役場から
上弦の月とオレンジ色にライトアップされたかのような山の端を望み、娘の思いを偲んだ。



2022.8/29
山の生活第436日。
どんぐり第1号
早くも奥の家のナラノキのどんぐりの青い実が、落ちていた。



2022.8/19
山の生活第426日。
三尖の鹿のテリトリー
朝、中の家の台所の流しに立っていて、ふと窓の外を見上げると、
三尖の角を持つ牡鹿が、
草を食みながらこちらを見つめていた。
樫原には、牡がテリトリーをつくるだけの草が無い。この牡も奥の家で見かける個体が足を延ばしたものと直感した。



2022.8/15
山の生活第422日。
善光寺詣
沖縄の娘が、安曇野から善光寺までの信濃路を旅した。父方の墓参りも出来た。



2022.8/13
山の生活第420日。
施餓鬼会
今年も施餓鬼会が巡って来た。
早朝、大泰寺に詣る。



熊野断想
只管打坐表紙写真と孫の動画

2022.8/12
山の生活第419日。
無事満一歳の誕生日を迎えた孫の動画を見て、
表紙写真に引かれて購入した『只管打坐講義』
を探す。
本は紛れてしまっていたが、Amazonのコピーで見比べた。
無心に座る赤子は、
習わずに姿勢が取れている。
孫の座位にもそれが見えているようで、
人知れず感動した。



2022.8/3
山の生活第410日。
鯵の丸干し
早くも秋の日の中を歩む心地がする。
南大居の店で求めたアジは、
豆アジから少し成長していた。
中の家の窓辺の巻簀に並べて、
秋の日の運航を追う。



2022.8/2
山の生活第409日。
八朔
娘が、
勤務を終えて走った海辺の畑。
何時しか5日の月が出ていた。



2022.7/25
山の生活第401日。
マリンブルー。
旧暦6/27晩夏。
那智浜のマリンブルー。
沖縄の娘のイヤリングのマリンブルー。



2022.7/22
山の生活第398日。
無事梅仕事を終え、
温もりの残る石段に腰掛けて、
犬達とゆく夏を惜しむ夕暮れ。
ひぐらしの声高く。



2022.7/21
山の生活第397日。
庭の奥から水源の谷水を回して
人工的な細い遣水を作った。
トンボ、イモリがすぐに偵察に来て、
そして、
おたまじゃくしが早くも大きくなってきた。



2022.7/20
山の生活第397日。
夏土用入り。
天候不順な今年だが、土用入りの声を聞いて、思い切って
梅干しを敢行した。



2022.7/19
山の生活第396日。
森の生活。
北安曇郡の息子家族からの写真に、ソローの『森の生活』を想う。



2022.7/14
山の生活第391日。
桧扇の花。
那智の扇祭りの日を忘れず、
滝本の小学校跡では、
ヒオウギが淡いオレンジ色の花を咲き初めた。



2022.7/4
山の生活第381日。
大輪の八重のクチナシ。
米国独自記念日の今日、
奥の家の窓辺のクチナシが
大輪の花を次々咲かせ、
その芳香を風が運ぶ。



2022.6/29
山の生活第375日。
晩夏の入り口。
今日は、旧暦の水無月朔にあたる。
晩夏へと傾斜していく季節の巡りを感じる夕景。



2022.6/23
山の生活第369日。
ビヨウヤナギ
楊貴妃に因んだ未央柳。
これも年々樫原で増えている、
鹿が食まない山人の厄介者だ。
だが、無心に眺めるその黄色い花の群生は、
美しい。



2022.6/22
山の生活第368日。
夏至の次の日。
雨の上がった夏至の次の日、
思い立って小麦峠から、名残を惜しむ。
これから冬至までサインカーブを描いて
日が短くなるのだ。



2022.6/19
山の生活第365日。
ヤマモモ
西中野川林道を家に帰る道すがら、
小さなヤマモモの実を見つけた。
そこに木が有ることは知っていたが、
実を見るのは、はじめての木だ。
お前は雌株だったのね。
家の前の雄株の大木の前で小さな実を撮影した。



2022.6/14
山の生活第360日。
窓辺のバラ
辛うじて軒まではい上り、
シカに葉を喰われるのをまねかれた
ピンクのバラが
今年はアーチのように
たくさん花をつけている。今がピークだ。
年々蔓延していくのだ。



2022. 6/9
山の生活第355日。
熊野断想
テイカカズラ
3年前には
その芳香や能の『定家蔓』を思い起こして
風流に浸っていたが、
今は、樫原のあちこちにはい登る蔓や樫原道に落花した白い花の多さに驚く。
年々蔓延していくのだ。



2022. 6/9
山の生活第355日。
熊野断想
テイカカズラ
3年前には
その芳香や能の『定家蔓』を思い起こして
風流に浸っていたが、
今は、樫原のあちこちにはい登る蔓や樫原道に落花した白い花の多さに驚く。
年々蔓延していくのだ。



2022. 6/6
山の生活第352日。
熊野断想
沖縄の娘
沖縄にわたって15年目になる娘。ステキなカフェの写真を送ってくれた。



2022. 6/1
山の生活第347日。
熊野断想
山の青空、海辺の夕映え
安曇野の田圃に映る空の青と
勝浦の大型スーパーから眺めた夕映えの色



2022. 5/27
山の生活第343日。
熊野断想
青い鳥
裏の開け放した窓から青い鳥が舞い込み、表の縁側のサッシにとまって硝子をコツコツ叩いていた。すぐ音に気づき、開けてやった。当然のような顔をして飛び去った。家の回りにいつも居てくれる青い鳥。



2022. 5/20
山の生活第336日。
熊野断想
ワープ
息子夫婦が西宮浜をあとにし、長野県北安曇郡松川村へと9ヶ月の孫を連れて移動した。
神戸から松本へ飛行機で、
西宮のマンションと同じようなスペースに移った様は、
天晴れなワープとしか言い様のない快挙に想えた。



2022. 5/19
山の生活第335日。
熊野断想
家の音・山の音
家の鳥小屋が終焉を迎えた。
もう先に屋根がひしゃげていたのが、文字通りぺちゃんこに成った。
軒に張っていた鹿避けのネットを取り外そうと引っ張っていたとき、かすかに、キーキーという音が聞こえた。
その瞬間、川端康成の 『山の音』を想った。鎌倉の谷戸の奥で初老の康成が聴いた山の音が分かる気がした。



2022. 5/18
山の生活第334日。
茶摘み終了、桑の結実

5月2日の八十八夜から3日間
滝本で摘ませてもらった
お茶を干し終えた。
強雨や梅雨入りを思わせる雨がやっと上がった今日、缶から出して仕上げの乾燥をした。

窓辺から見上げると、
この間花房を道路に落としていた
桑が、青い実を付けはじめていた。



2022. 5/4
山の生活第320日
樫原の鯉のぼり

樫原奥に皆で鯉のぼりを揚げることは、天候にはばまれた。現に手前の坂足の大鏡院さんの所で落石がとうせんぼしていた。

雨が降り止んだ5月4日
やっと樫原の鯉幟を
ウツギにたすけられて
祖母の初仕事として揚げた。
鯉の滝登りだよ、と、言い訳したが。



2022.4/24
山の生活第310日。
子供たちの帰郷・那智湾にて。
雨が強く樫原行は断念した。
樫原は子供たちにとっては飛び立つ踏み台だけの意味しか持たない。私にとっては、縁の有る人達や時代を見晴らすのに必要な場所だが。

夕方一の滝の宿から雨の中
那智駅まで浜を歩く。
早足の娘の後ろ姿を追いかけるのが精一杯だった。
娘にとっては那智湾が沖縄渡航への出発点だったと改めて思い知る。



熊野断想
山岳小説『アルネ』、ハイリゲンシュタットの『田園』、宝泉岳の岩肌
2022.3/22
山の生活第277日。

冷たい雨に、
水源山歩きを断念した午前中、
『アルネ』を読む。
ノルウェーの国民詩人と仰がれた
ノーベル賞作家ビョルンソンが、
自身の純情と詩才の分身である
主人公アルネの精神の成長と、
同行の婚約者への優しい思慕を、
歌や民謡を珠玉のように散りばめた
歌物語の形式で、
1858年夏に婚約者を含む俳優集団と訪れた
ロムスダールの深山の農場で
一気に書き上げた作品だ。
『アルネ』のページを繰る間かけておいた
『田園』のパレストーレが、
『アルネ』序曲の
岩山と樹木の対話と呼応する
終曲の
アルネとエリの結婚式の行列を慈しむように見下ろす岩山のシーンに、
響き渡った。
雨風の去った夕暮れ、
小麦峠に
宝泉岳の岩肌を眺めに行く。
裾の中腹の山桜を見晴かしながら、
零歳児の孫の葉介が、
アルネのような純情を育みながら成長して行く20年を願い、
一か月後の弥生24日、
皆でこの景色を眺める日を思った。



熊野断想
西行忌、山桜
2022.3/19
山の生活第274日。

今年も西行忌が巡って来た。
「その如月の望月のころ」
その願い通り
旧歴2月15日に入滅したという
釈迦の命日の明くる十六夜に
西行は逝ったという。
また明くる朝、
昨夜来の雨に洗われて
太田川から西中野川と上る道の
山桜が目に眩しかった。



熊野断想
時の軌跡の接近・オオカミの導き
2022.3/11
山の生活第266日。

東日本大震災から11年前の
その日その時、
樫原の奥の家の此の部屋で、
天満の家人、4月から琉大院生に進学する娘と
衛星放送の画面にくぎ付けになっていた。
35年前の1987年3月31日、
師の師 直良信夫博士の鑑定した新宮市所蔵のオオカミ下顎骨加工品に導かれる様にして
新宮駅に私は、降り立っていた。その翌年6月に娘が生まれたのだった。
1905年捕獲大英自然史博物館所蔵の標本写真をもとに復元画作製を
神奈川県立自然史博物館の中村一恵先生から依頼を受けた
1996年は、
秩父宮記念三峰山博物館客員研究員
八木博氏が、秩父の山中で宿命的な生物と出会った年だ。
この夜(2022.3/11)、私は、
3/8~3/10の長野県諏訪郡の旅を終えた息子家族の写真と並べて、
1996年9月に6歳と8歳の子どもを連れて訪れた八ヶ岳の麓北相木村の栃原岩陰の資料を、
眺めていた。
八木氏から2020年10月以来の長い電話がはいった。
東大総合資料館所蔵の長谷部言人コレクション図録(茂原信夫博士、1986年)に触発され、
化石・縄文オオカミの実査に本郷を訪れた
1997年は、
石黒直隆博士がミトコンドリアDNA解析のために骨粉の採集を始められた頃だった。
八木氏との電話もその話題が多くを占めた。
娘、息子、私、
八木氏、
オオカミに導かれての時間の軌跡が、
この春大接近のイメージに
戦慄を覚えている。
4/23~4/25樫原に家族が大集合する。



熊野断想
リヒテル ・オデッサ・カプリチオ ・息子家族の旅立・栃原岩陰・オオカミ
2022.3/8
山の生活第263日。

ピアニスト ・リヒテルが
モスクワ音楽院入学まで
若い日を家族で過ごした
オデッサ包囲を、
朝の微睡みの中で想った。
リヒテルは、1941年26歳のとき、
父親をスターリンによる粛清で失ってからも
終生モスクワにとどまり、
音楽家の自然の感性とも言えるlbgtを持ちつつソプラノ歌手ニーナ・ドルリアクを生涯の伴侶とした。
リヒテル79歳のライヴ録音
バッハのカプリチオ
u¨ber die Abreise eines geliebten Bruders。
友愛に充ちた音楽を樫原の20年聴いていた。そのCDジャケットを眺める。
2年前の春に結婚した息子夫婦に、
リヒテルの死の翌年5月に逝ったニーナのように連れ添ってと願った時は、
リヒテルがlbgtであることを知らなかった。
今は、大地に向かって音を響かせたいと願う
彼の感性を肯定出来る。
息子家族は、今朝、
幼い息子の感性を育む大地を求めて旅立った。
その地は、
幼い二人の子どもを連れて、
出土のオオカミの下顎第一臼歯撮影に訪れた、
長野県北相木村栃原岩陰の
赤岳のあなたの原村だ。



熊野断想
見渡せば花も紅葉も無かりけり
2022.3/4
山の生活第259日。

しばらく休止していた固定電話の
再開のため来たNTTの工事責任者の言葉が
定家の歌を思い出させた。
「25年前に電話線を開通しに来たとき、
ここは、犬を沢山飼っている方の住まいで、彼処にも此処にも犬が居ました」
「それは22年前でしょう、私たち家族は、
1999年12月31日に
犬と子ども二人の
古座川の奥のからの引っ越しを
完了したんです。
子どもは、那覇と西宮浜に巣立ち、
そして犬たちも・・」と、言いかけて、
定家の歌のイメージが浮かんだので
あとは、言葉が途切れた。
今日は、
敷地の南の端に立つ
KDDIのアンテナの
小一時間の点検を終えて
若者二人が帰っていった。
1000年の時を越えて繋がった、
定家25歳のイメージを確かめようと、
国文学者赤羽淑氏の『定家の歌一首』の
ページをめくる。
茂吉、塚本邦雄、三島由紀夫、小林秀雄らの
批評も示しながらも、
赤羽氏は、
外国文学を研究する友人と
教えている女子大学の学生の感想を引いて、
華やかさと暗さの両極に揺れるようで、
実は、暗さと明るさが表裏を成すのだ、
と、解釈された。
樫原に来て20年、これから続く時間、
この光陰のもとに。



熊野断想
動物の種蒔き
2022.3/3
山の生活第258日。

奥の家の回りを掃いていたら、白い円い小さな実が、たくさん落ちていた。
万両の赤い実を剥いて確かめた。
ヒヨの種蒔きだった。
奥の家の南の岩窟の上をよじ登っていてコナラの大木のもとに親とは違う種類のどんぐりの苗が育っていた。
4年前に西中野川で収穫したツブラシイの実を
アカネズミが埋めといてくれたのかな。



熊野断想 寂寥感のテイスト

2022.2/26
山の生活第253日。

西宮の息子が送ってきた海浜公園のアルバム。
高校生の時の息子の写真とよく似ているな、
と思いつつ、
海と空と父子の上着の青の
鮮やかさに見惚れていた。
突然、えもいわれぬ寂寥感におそわれた。
50年後の葉介が、「父さんもこんな若い時が有ったんだね」と言う声が聞こえた気がした。同時に、
二百日に満たない記憶の彼方の幼い日、
父親の膝の中で慈しまれていたことに感動する葉介の姿が浮かんだ。
その時、私は、確実にこの世を去っている。
いや、若いとばかり思っていた息子さえ
黄泉への道に入っているかもしれない、
と想った瞬間に。


2022.3/1
山の生活第256日。

春の朝の微睡みのなかで
寂寥感の味わいについて書き足さねば、
と、思った。
アップルサイダーテイスト。
さらに、
「わが口に甘かりき」と、
浮かんだ。
この語句は何処から?
旧約聖書の雅歌第2章
「彼の与える実はわたしの口に甘かった」
冬は去り、
花咲き鳥歌う熊野の春。
ウクライナの戦火と、
自然の時の流れと、
一体どちらが幻想なのだろう?



2022.2/24
山の生活第251日

ヒヨの食べ物。
本格的春までの
一段と冷え込む昨日今日。
ヒヨは元気に万両の赤い実、
白梅の花枝を揺らしていた。



2022.2/23
山の生活第250日。

奥の家の南の岩陰。
樫原の最奥狩場野出身の人に
教えられた。
60年近く前、店や酒倉があってよく遊んだが、たしか、この辺に岩倉もあったよ、と。
そう言えば、と思い起こして
20年前から、石で埋まっていた岩陰に佇む。
ツララが下がり、
苔むした上部に
かれんな白い花が群生していた。



2022.2/21
山の生活第248日。

カラス、ネコ、イヌ。
滝本へ出かける時は、マイカラス(多分樫原育ちの何代目かのツガイ)が、先導して帰るまで何時間でも待っていてくれる。人には馴れていないが、私について来るのが生来の行動として刷り込まれている。車でなく徒歩の時もついてきた。
スパセン生まれの家出山猫の黒さんは、滝本で自活している。
滝本訪問の時やってくる仲間に下地の斑の猟犬が加わった。流石に犬は人に直ぐ懐く。お座りや伏せをして待っているし、人が歩くとキキとして並んでかっ歩する。
カラスとネコは、イヌが来ないかチラチラ見ながら、エサも落ち着いて食べられない。



2022.2/17
山の生活第244日。

滝本道の往復。
朝目覚めて、積雪に気づいた。
大事をとって12時開始と連絡してヘルパー仕事に徒歩で出発した。何ヵ所か白くなっていることを確認しながら、1時間足らずで下りた。
帰りは、斜度とカーブの形状を組み合わせた最短コースを選ぶことを楽しんだお蔭で1時間余りで上った。 小麦峠の夕景が目にしみた。



2022.2/8
山の生活第235日。

家の回りに住み着く山出犬。
山からでてきた斑犬の万ちゃんは人には馴れないが、いつも家の回りに陣取って家の様子をうかがっている。可愛らしい。



2022.2/7
山の生活第234日。

滝本の川端のネコヤナギは健在だった。
20年前、大柄の母ヤギのミントから生まれた
同胎の子ヤギのセージ、ササ。
「セージの好きなネコヤナギ!」
などと即興の節を唱えながら、
折ってきたネコヤナギを食む子やぎを
子どもたちと一緒に眺めていた
フラッシュが甦る。



2022.2/5
山の生活する232日。

梅一輪一輪と、
春の到来をことほぐ
古来の言い方に同感する。
旧正月、節分、立春を過ぎ、
滝本の梅も満開となった。



2022.1/31
山の生活第227日。

滝本の斑犬。
滝本下地のKさんが、太田の猟友から譲ってもらった犬で、15歳になる雄。
よく仕込まれていて、自分で鹿をくわえたりすると言う。



2022.1/28
山の生活第224日。

籠の斑犬。
熊野川の三重県側で保護された猟犬を
籠のTさん夫婦が飼っている。
8歳の雄で、猟欲も有るという。静かであまり吠えない。顔も良いので人気だそうだ。



2022.1/23
山の生活第219日。
熊野断想「日和見・ルーティーン・アドホック」

氷雨が暖かい雨となった昼間、雑巾で硝子戸を拭きそのまま雨に洗って貰う。
全共闘世代の後、新左翼乱立時代の学生時代だったら、日和見主義は、非難の的だったなあ、と、回顧する。
事大主義は、今でも忌避するが、
江戸時代の天気予報を語源とする
日和見ができなくては、
山では生きられない。
日和見の対極に
くるくる目まぐるしくプログラムの回路を巡るイメージがピッタリの、
ルーティーンという言葉が浮かんだ。
routeから派生したroutineから脱出できず
仕事上苦悩することも多いのだろう。
ラテン語源の ad hocが仕事上の対義語という。
日和見にせよ、アドホックにせよ人間社会だけの視点を捨象し、自然環境を外側から眺める地平を切り開いてこそ意味がある。
出来ていないのは、人間、家畜たちで、
大部分の生き物、いや静物までも、
日和見、アドホックは、苦もなく実行しているのでは、
と、窓の外を眺めながら想った。



2022.1/22
山の生活第218日。

離乳食スタートの孫の写真が
アルバムアプリで送られてきた。
真剣に味わう横顔にキュンとなった瞬間、
古い代々木の家の8畳の居間の梁に
70年以上前から掛かっていたであろう
フランソワ・ミレーの「ついばみ」の複製画と重なった。
物心ついた頃からいつも目に入っていた絵だ。



2022.1/21
山の生活第217日。

大寒に入って2日目。
毎年、天満古来のお酢屋さんの娘さんが、家人のアパートに寒の水を届けて下さる。
その日入院して不在となったアパートの玄関にそっと置かれていた赤いパックを樫原に持って来た。
去年の青いパックから先に沸かした。



2022.1/14
山の生活第210日。

昨日滝本ヘルパーの時、山に雪が舞って来たので急いで帰宅した。
今朝滝本道を見に行くと、雪景色だった。



2022.1/13
山の生活第209日。

寒波がやって来た。家の前の道路も凍っている。奥の家の水回りのために水源からの太いホースのくびれを直した。水圧は、途中に巨大な氷のオブジェを造った。枝垂れている樹に罪を詫びる。



2022.1/3
山の生活第199日。

奥の家の水回りを改善しようと東斜面のタンクまで上がっていく。最後まで西陽があたり温かい萱の間が 山から来た犬の 万ちゃんの居場所だ。家や道路の様子もうかがえる。



2021.12/31
山の生活第196日。

大晦の朝は、雪の中だった。雪吹にひるみそうになったが、滝本までヘルパー仕事納めに降りた。積雪はもう消えていた。年越しは、風の音を聞きながら静かに過ごそう。



2021.12/27
山の生活第192日。

滝本道の凍結を怖れてヘルパー仕事を休む。
明日は、下りられるかどうか、町境まで見に行った。



2021.12/26
山の生活第191日。

予報通り、朝起きて窓からみた世界は、雪に埋もれていた。



2021.12/24
山の生活第189日。

樫原のクリスマスカラーは、
植林の杉の下の低木として確実に増えつつあるセンリョウだ。
西宮のマンションの8階の一室では、
2年前の婚約の日に妻君から贈られた
クリスマスカラーのセーターを着た父を
4ヶ月の息子が見上げていた。



2021.12/22
山の生活第187日。

冬至の日の柑橘類は、沢山拾った。
いつまでも枝について
冬の滝本を明るくしてくれた山柿は、
ドライフルーツのように甘かった。
種の大きさに野生種の頼もしさを感じる。



2021.12/20
山の生活第185日。

滝本の南に面した斜面の
主が山を降りている
屋敷の石垣に晩秋の名残の
サネカズラの赤い実が
半ば乾燥してルビーのように垂れていた。



2021.12/19
山の生活第184日。

一番の冷え込みが来て、
奥の家の前の道が凍った。



2021.12/12
山の生活第177日。

家人の白内障の手術の初日を終えて、串本有田港の景色を楽しむ。
同じ日、沖縄の娘は、那覇市のナハートのこけら落としの
野村萬斎氏の唐人相撲の斬新な舞台に
市民参加の形の武官で立っていた。

卒寿をむかえられた父君の万作氏の三番叟も華を添えたと言う。

長大な翁の舞は、正月の演目だ。
飯田橋駅から歩いて正月の例会に能楽堂に連れていってもらった時、
三番叟を舞った野村万作氏は40歳前だったのだ。

もう50年以上前のことだ。



2021.12/2
山の生活第167日。

瀧本の大きな花梨の実を今年も採集させてもらった。昔植えて今は瀧本を離れている人家から。毒性をなくす加工をしない限り、そのままでは、食べられないことを皆知っているかのようにごろごろ地面に落ちたままだった。



椎の実採集と食物連鎖
熊野断想2021.11/29
山の生活第164日。

西中野川林道のスポットでは、
椎の実は、収束した。
その南の小色川旧道入口に残る
椎の森に佇む。

今年はここでも、
少しだけ椎が実を落としていた。
親木の足許に隠れて、
小さな苗が育っていた。

かつてホモ属が、
食物連鎖の中程に位置を占めていた頃から、
ドングリ採集は、許される行為であったろう。親木の意志に従うそのおこないは。

小さな苗を預かった。



直立の悲しみとバリ舞踊
熊野断想2021.11/28
山の生活第163日。

直立二足歩行の重力をまともに受ける弊害は、人類(ホモ属)の悲しみだ。
2019.6/29の日付で、娘が、沖縄からさらに
バリ島へ旅行した土産に付けてくれた絵葉書を見た。

バリ舞踊の美しい基本姿勢をとる乙女。

正面観の重心の分散と、
空間を立体的に捉え、空間に馴染み、
次の瞬間にどの方向へも動ける
野生動物のしなやかさ。

そこには、
悲しみを昇華させた美しさが有った。



2021.11/27
山の生活第162日。

食品、料理専門のフランスのジャーナリスト、マリー・クレール・フレデリックの
『発酵食の歴史』(2019)のなかに、
加熱より発酵が先だった、
との記述(P.32)を見つけ安堵する。
おぼろげな私の直感の支持を得たような
気がして。



2021.11/26
山の生活第161日。

紅玉を清水に浸し、発酵を観る。



2021.11/25
山の生活第160日。

本宮のかたからのお裾分けの
柚子と、
熊本産和牛ケンネ脂を、
清水に漬ける。



2021.11/24
山の生活第159日。

狩場神社の餅まき台の足許に
センブリが、
鹿に喰われず、
生き残っていた。
強烈な苦味は、
ヒトにとっては、薬だが。



2021.11/23
山の生活第158日。

収穫感謝の日に、
ネアンデルタール人の
食卓を想う。

採りためた果実、木の実、動物の脂肪、
薬草、岩清水。
彼らの穏やかな感謝の念は、
冬至の日のミンスミートのパイに。

勉強しなさい、しか言わなかったような
母も、本音は、お菓子作りや手芸が好きだったのだ、と、今は回想する。
熊野に持ってきた母の本に
ミンスミートの作り方が載っていた。



2021.11/22
山の生活第157日。

須川邸の西のはずれに、
東のはずれの腐葉土で、
二畝作った。



2021.11/21
山の生活第156日。

発酵の無い、
どんぐり粉と茶の実油の
パルミエは、苦かった。

何時もの早焼きパンは、
ドングリの発酵水のお陰で
食べられるようになっていたのか、
と、先史時代の発酵に想いを馳せる。



2021.11/20
山の生活第155日。

ひしゃげた鶏小屋の溝に、
小麦峠の腐葉土と草木灰を入れて、空豆を植え込んだ。



2021.11/19
山の生活第154日。

滝本の人に教えられた。
シロバンバが飛ぶと、
熊野のサンマが店に並ぶ、と。

沖合い魚のサンマは、縄文貝塚の動物遺存体のなかには見られなかった。
産卵期に接岸するサンマを遊木などで、
サンマ寿司にした。
今年は、どこで水揚げされたのかどうか。
何年か前は、串本まで南下していた。



2021.11/18
山の生活第153日。

須川邸の裏の高い石垣を背景に
ノササゲの紫の鞘、青い実。
その上には、
鹿を免れた南天の赤い実。



2021.11/17
山の生活第152日。

串本の眼科の検診をおえた家人と、田原の入江で弁当を摂る。
このおくを廻る小径は、
32年前の3月に赤ちゃんの娘を連れて
訪れた。まさにつらつら椿。
今度は、孫を連れた家族で見たいもの。

帰りは、籠で、十三夜の月が登り、
坂足で日が暮れた。



2021.11/16
山の生活第151日。

家人の検査の付付き添いの為、
山を降りる途中、
西中野川のポイントを見遣ると
椎の実は、ほとんど消えていた。あれが、
ピークであったのか。

マスティングも無く。



2021.11/15
山の生活第150日。

滝本のヘルパー仕事のあと、
萱刈場のようになっている
使っても良いよと言われて、
今までは、力の及ばなかった
北谷の入口の広い土地の
ススキを束ねたり、
間に隠れていたチカラシバの穂先を摘んだり、
軒裏のドングリを集めておいて下さっている
家で昔の話を聞いたり、
茶の実を拾ったり、と、
何時にもまして帰りが遅くなった。

さすがに、
家のカラスは、帰ったろうと思いきや、
6時間半も待ってくれていた。
只、車が樫原へ上り始めたのを確認して、
カラスは、先に戻って行った。

小麦峠の手前の「無名の見晴台」と
ツーリングの人に知られるところで、
日が暮れた。



2021.11/14
山の生活第149日。

朝目覚めて窓のそとの、
若木に気がつく。
木の名を知りたくて、
そのまま宝泉岳の頂上に向けて、緩やかな斜面を上っていく。かつての屋敷あとを見ると、
その若木の親、その上に親の親の老大木が連なっていた。

多分、マユミと、思う。



2021.11/13
山の生活第148日。

今年の梅仕事の時、
大量の収穫に感謝して
完熟の種を砂地に埋めておいた。

人間が欲張って青梅のうちに先取りした
後ろめたさのせめてもの解消にと。

3メートル程、北へ平行移動した
風でひしゃげた鶏小屋の軒先の隙間に、
家のアカネズミ君が
すかさず核を囓って纏めていた。

直良先生の遺跡出土の有り様に似て。

アカネズミ君は、どんぐりの季節は、
出張中だ。



2021.11/12
山の生活第147日。

奥の家のサザンカの赤い花も沢山開花してきた。
クマンバチの羽音を聞きに木の側に寄ると、実が弾けて落ちていた。

同じ椿属の日本固有種のヤブツバキから採る
椿油は、奈良朝には、渤海使に請われたり、
遣唐使の朝貢品として国際的価値を持っていたらしい。

万葉集には、巨勢山のつらつら椿、と、
序詞的に使われてはいるが、
巨勢の春野は、天皇に随行する万葉歌人にとって、土地誉めの祝詞以上に心から憧憬の土地だったのだろうと、
サザンカの花の下で連想する。

蘇我氏と同祖の巨勢氏の高市、
三輪山の南、金屋の辺りの椿市は、歌垣の地でもあったし、平安時代の長谷寺詣では、ここで装束を調え、奉納品の、灯明にする高価な椿油を買い求めたと言う。

さて、長々しい小春日よりの連想は、
巻16で家持が書き留めた大舎人三人嗤い歌。
巨勢氏は小柄で肌は黒く、分流の斐太氏は大柄で肌が黒い。それを嗤った埴輪づくりが職掌の土師氏に、肌が白いので、黒色が欲しいのは尤もだ、と応酬する。
太郎冠者、次郎冠者の源流を見る思い、と同時に、三輪王朝が、多彩な遺伝子を受けた氏族で成り立っていたことをイメージできる。
そう言えば、旅情宮廷歌人 高市の黒人も巨勢氏等と同祖と言う。

断続的にインスピレーションに浸った日の夕暮れ、山から出てきた 万ちゃんが、何時ものように道路の真ん中に座って、こちらの様子を伺っていた。



2021.11/11
山の生活第146日。

滝本のコナラ属の常緑樫類。
1週間の間に水浸処理の後、
もろぶたに6杯程取れた。

皆、実が充実していた為、
殻が自然とはじけてきた。

夕方160粒程を
40分位で手で剥いて粉にした。
何時もの早焼パン2回分はありそうだ。



2021.11/10
山の生活第145日。

奥の家のサザンカの横の
ヒオウギ。
気がつくと、
鹿が葉を噛んでいた。
留守中食べに庭に来ていたらしい。糞も落ちていた。



2021.11/9
山の生活第144日。

天満に用事で降りた夕方と
その翌日山に帰る時の
合計40分位の間に、
西中野川の何時ものポイントで
ツブラジイを拾った。
今年は、コナラ類と同様に、
シイの「マスティング」も有るらしい。



2021.11/8
山の生活第143日。

チカラシバの、
たった1株フェンスのなかに
鹿に喰ないよう温存してあった完熟の穂から、
種取りを試みた。
採取できたほんの数粒をポットに撒いて、
来春を待つことにした。



2021.11/7
山の生活第142日。

可憐なセンブリの白い花は、
須川山の林縁に10本程の群落をつくっていた。
狩場神社には、咲いているのかどうか?



2021.11/6 補遺
山の生活第141日。

森林総合研究所紀要を参考にしたスマホの記事:
「ドングリの加害虫」に救われた。

できたドングリの殆どは、
過程で失われてしまい、ドングリの子になるのは、1%に満たないのだ、と。
それに対するドングリの戦略が、「マスティング」と呼ばれ、成り年の間隔を空けることで、
害虫の生息数を操作するという。

須川山の林縁の20~30年生のナラの木の本に、
やっと1本の幼木を、昨夕見つけた。
念願の子が出来て安心だね。



2021.11/6
山の生活第141日。

朝、目覚めたまま、ぼんやり思う。
昨日、滝本の大量のどんぐりの
殻を一部剥いてみて、
入っていたドングリ虫の多さに
今更ながら愕然とする。
殆どは、コナラシギゾウムシ、
枝ごとおちていたのは、ハイイロチョッキリの親の仕業と知った。

窓の外を見ると、
センリョウ、マンリョウの赤い実。
サザンカの赤い花も一輪、二輪。

それを眺めながら、
植物、虫、鳥、動物、静物までも含めて、
すべての物との共生が、
虚言に終わらないためには、
出来る限りの不殺生を、と、思う。



2021.11/5
山の生活第140日。

今日一日は、晴れと聞いて、
勝浦のスーパーの茄子、牛蒡、ブナシメジ、
三輪崎の頂き物のサツマイモを
薄片にしてウツギの枝に干す。

西中野川のシイ、滝本の六地蔵尊の前で拾ったコナラを粉に挽く。



2021.11/4
山の生活第139日。

滝本の人が、
家の裏の柴と一緒に
樫の実を掃き集めて下さっていた。

良く太ったコナラのドングリだ。
去年はなかったが、
今年は一昨年と同じ豊作で、
トタン屋根に降る音が喧しくて、と。
その音は、私には、
星降るクリスマスのお祝いのように荘厳だ。

ドングリの降る音も
今朝を最後に聞こえなくなった、と。



2021.11/3
山の生活第138日。

11/3は、明治神宮の例大祭。
明治天皇の御稜威か、不思議と晴れ渡る。北参道の縁日に幼子を連れて出掛けた。明治神宮の森が、私の故郷だ。

11/1の樫原の狩場神社のお祭りは、3年越しで、とりおこなえなかった。
ローズピンクの夕映えと、センブリの白い可憐な花を懐かしみながら、
神社に遥拝し、天満まで降りる。

途中、籠の林縁にムラサキシキブの一枝。



2021.11/2
山の生活第137日。

我が宿のイヌタデが、
ビッグ・バンの気配。

昨日の万葉集に関わる≪師の賜物≫を開くと、
八穂蓼、多分水蓼(ヤナギタデ)を織り込んだ
嗤い歌を眼にした。

天武朝には朝臣の姓を賜った程の名家の二人。
平群朝臣が、
穂積の朝臣をからかった歌(巻16-3842)。
それに和うる歌として穂積朝臣の
平群朝臣への嗤い歌(巻16-3843)。

名族の長が、自らの風貌や古来の生業を
滑稽なものにして、おどける。
奈良時代後期、律令制や鎮護国家下に、
恭順するためのパフオーマンスだったかも。

真朱(水銀朱)は、平群朝臣の鼻の上を穿れ、
とは?

巻16-3840,3841の
大神朝臣と池田朝臣の嗤い歌の応酬にも、
真朱が足らなければ、
池田朝臣の鼻の上を穿れ、とあるのは?

彼ら族長たちは、赤鼻の天狗の様だったのだろうか?
その生業は、鉱脈を掘ることだったのだろうか?

本の奇遇に誘われて、迷い込んだ。



2021.11/1
山の生活第136日。

15歳の時の≪師の賜物≫

中西進氏とも知り合いの上代文学の研究者が、講師で教えた、ませた中学生の私に、
高校進学祝にと、
武田祐吉博士の万葉集全講を下さった。

11年後の≪師の賜物≫

動物考古学の恩師は、雑文の参考にと、
昭和23年発行の
小清水卓二博士の古書を下さった。

この2冊が、この歳になった私に
みずみずしい感性を与えてくれる。



2021.10/31
山の生活第135日。

昼下がり、
ヒヨが1羽、
ノブドウの最後の実を啄みに来て直ぐ立ち去った。干柿を偵察に来たのかも。

何時もの旧人粉食パンに
初収穫のアカマンマの実を混ぜた。



2021.10/30
山の生活第134日。

須川山の公団造林のネットと
県道沿いの家のイヌマキの生垣との間に、
ノササゲの紫の鞘をみつけた。
食用にはしていないらしい。



2021.10/29
山の生活第133日。

須川邸の畑の畝を作っていたら、目の前の茅の間から、
鹿が食い遺した球根から、
ヤマラッキョウの紫の火花。
ノビルだと思っていたら。



2021.10/28
山の生活第132日。

朝、昨日勝浦のスーパーで買ってきた牛蒡を切って干す。やはりスーパー安売り茄子も継続して干した。
見上げると、キッチンの庇に巣造りしたニホンミツバチが、飛び交っていた。



2021.10/27
山の生活第131日。

天満で、家人の様子を観たり、用事を済ますうちに、
山へ登るのが遅くなった。

坂足の上の県道、2011年大水害以来段差が出来ている地点で、
日没近くを迎えた。
クスノキの大樹に映えるローズピンクに、
見惚れた。



2021.10/26
山の生活第130日。

樫原奥のメインは、旧人風粉食パンだ。

小麦粉の含有率をだんだん小さくしていきたいものだ。

柿水の助けを借りて、貴重なドングリ粉、
アズキ粉、柿の乾燥皮の入った即席パンが
今朝も焼けた。



2021.10/25
山の生活第129日。

明け方3時に雷鳴とともに雨が降りだす。今日一日は、雨のようだ。
即席のパンを焼いて、滝本仕事の弁当にして、
パンの切れ端を玄関の犬に投げて遣る。

山から出てきた有色の俊敏で気の強い母親と
海南からきた気の良い白仙という紀州犬の父親の娘の智というこの犬は、
餌を投げても、前足をよけ、匂いを嗅いでから、こまめに噛んでたべる。



2021.10/23
山の生活第127日。

一昨日、西中野川の同じポイントで拾った
ツブラジイを、
やはり同じくコーヒーミルで挽いた。
殻は、柿水を加えて、
発酵を試みる。



2021.10/22
山の生活第126日。

滝本の川沿いの山柿は渋柿なので熟したら、
鳥が啄む。
先手を打って滝本の人が採った柿の
お裾分けで、干柿用に30個、枝に干す。

その柿を取り入れた夕暮れ、
樫原奥の夕映えは、ローズピンクだった。



2021.10/21
山の生活第125日。

奥の家のガマズミは、鹿に根っこを噛られて虫の攻勢に勝てず、
今年は去年のような鮮やかなルビー色の実が見られないなあ、
と、思いつつ見上げると、
須川邸の高いイヌマキの生垣のあいだから
青空に向かって赤い実をのばしていた。
x


2021.10/20
山の生活第124日。

恐い紀州犬のところのアケビも、
カラスが採ったようだ。
一つだけ実がついているが。



2021.10/18・19
山の生活第122・123日。

一期一会を覚悟の
貴重なツブラジイの加工。

西中野川林道のワンポイントで
一昨日採集した木の実。

コナラ類は殻をとって水につける。
ツブラジイは、40個に満たない。

コーヒーミルで挽き、篩にかけ、
粉はアルミフォイルにつつみ、
残渣は、ブランデー漬けに。



2021.10/17
山の生活第121日。

朝起きると、杉の梢に冷たい風が通っていた。
外に出てシダを刈っていると、頬が冷えた。

夕映えは、
冴え渡る空気で、美しかった。



2021.10/16
山の生活第120日。

奥の家の縁側の前の
アカマンマが、真盛り。



2021.10/15
山の生活第119日。

2018年10/16と同じショットを撮れた喜び。
ツブラジイの一段と小さい初熟実を掌に。



2021.10/14
山の生活第118日。

柿の実が1/3個 落ちていた。
裏返すと皮一枚で、
身はきれいにカラスが啄ばみ、
その後にアリが寄ってきていた。



2021.10/13
山の生活第117日。

ヒトは食べないノブドウを
ヒヨは嬉々としてたべる。

朝8時、今更ながらと思いながら、高校までの同級生が監修する本を開いて、
意外とテキスト的で読めるなあとさっと目を通して、窓の外に目を遣った時の光景。

かつて 、長谷川真理子氏と私を
研究対象から揶揄して犬猿の仲と、
同級生が言ってくれたそうだが、
総研大学長と山姥では、と、思って、
ケンエンしていたが、
山姥の生活も満更ではないと気を取り直す。



2021.10/12
山の生活第116日。

息子の息子が生まれて二ヶ月たった。

丁度60日目のアルバムを見て、
16万年前とされる甘粛省夏河白石崖溶洞のデニソワ人を思い浮かべた。低酸素適応の遺伝子を内包し、東ユーラシアの北から南まで広がっていた彼等にとっての扇の要のようなヒマラヤに想いを馳せる。

ヒマラヤに登り、ユーラシア大陸を俯瞰した経験が、研究の源泉となっている学者の一人、環境考古学者の安田喜憲氏撮影のヒマラヤのページを開いた。

葉介と名付けられた この子の面立ちを、私の記憶の中に辿る。私の母方の 彼にとっての玄祖父やその息子たち(わたしの母方の伯父・叔父)の面影や眼差しが、この60日間に去来した。

長野県旧大岡村は、私の父方の先祖の地だ。
丁度一年前新婚旅行の真似事で、息子夫婦は、日本アルプスを望む安曇野から大岡へとドライブした。

葉介の血液の広さは、わたしのイメージを限りなく広げてくれる。



2021.10/11
山の生活第115日。

1年に一度の大切な山の幸を、
粉にしたり、乾燥後アルコールを振ったり、
ハチミツで発酵させたりして、保存。
ヒトのエゴとはいえ、
一人の糧として許されるだろうか?



2021.10/10
山の生活第114日。

雨が断続的にパラパラと降る。
窓を開けると、ヤマノイモのムカゴが、出来ていた。
オニドコロの弦に隠れるように。



2021.10/9
山の生活第113日。

朝8時。
キッチンの窓辺にウグイスの鳴き声が届く。
ひとなつっこい鳴きかたに惹かれて外に出て、鳴き声を真似る。3本の木を廻って鳴き返してから、狩場野へ飛び去った。



2021.10/8
山の生活第112日。

ヒト科の分類に於いて、
従来の形態学的相違に、
遺伝的距離の知見が加えられ、
今では、刻一刻枝を伸ばす
見事な 系統樹に育っている。

私の山の研究室にも、平面図では追い付かず、古い地球儀をすえた。



2021.10/7
山の生活第111日。

滝本の旧校庭の満開のキンモクセイのもとで、家から家出して里ネコになっている黒さんと、
マイカラスとの力関係を観る。
ヒトが傍に居る時は、
ネコ > カラス。
ヒトが3~4メートル離れると、逆転。

そこで、30数年前の中辺路野中の
吉垣内和策翁への、 家人のインタビューテープの一節が甦った。
“ 家の回りに群れで来て座った 山犬達に、壮年だった翁が、鉄砲を構える仕草をすると、
山犬達は、山へと後退する。
勢い着いた翁の飼犬達が、山へ追っていくと、力関係が逆転し、
飼犬達は、逃げ戻る。それの繰返しが可笑しかった” 、と。



2021.10/6
山の生活第110日。

サルが奇跡的に見逃した
滝本下地の山栗を貰い、
直ぐ皮をむき、渋皮ごと干して、
生栗粉を作ろうとしている 罪の意識を、
アカネズミが、和らげてくれた。
残渣が、さらに細かくなって、勝手口に散らばっていた。

家の周辺のアケビは、怖い紀州犬の真上のもの以外は、全て鳥族が、啄んだ。地上4〜5メートルの制空権は、彼等のものだ。
弦を高い所にのばしたアケビは、鳥に種を撒いて貰うのだ。



2021.10/5
山の生活第109日。
26才の時に動物考古学徒としての
ささやかな出発の贈り物として、
恩師が、『科学朝日』に小文を載せる機会を与えてくれた。
その冒頭で私は、生態学・精神病理学・心理学さらには東洋思想をも含めて本質的に農耕文化を批判し、対極に狩猟文化を置いた ポール・シェパードの『狩猟人の系譜』(1975)の言葉を引用した。
訳者の一人は、自己家畜化の旗手 動物学者の
小原秀雄氏だ。
以来、「自己家畜化」 は、私の心の芯になっている。

今、私なりの山でのささやかなライフワークの方向を確かめるための2015・16刊行の訳本3冊を置いた。

恩師と私の中間の年代のパット・シップマン女史は、オルドゥヴァイ渓谷の獣骨のカットマーク研究が古人類学者としての出発点と言う。

2008年春から夏の半年間のBBCの企画で、
人類の足跡を辿った旅の 、
文献的に裏付した書籍版を2009年に出した、1973年生まれのアリス・ロバーツは、
古病理学が専門だった。
彼女は、旅の途中、
2008年の初夏のライプツィヒで、
ネアンデルタール人のミトコンドリアDNAを抽出中の スヴァンテ・ペーボの研究室に立ち寄り、僧院のような静謐さの雰囲気に圧倒されている。

ペーボの研究室は、その後、核DNAの抽出、機能遺伝子への展望と、日々刻々と静かな歩みを続けている。

ぺーボ博士の繊細で生き生きとした30年の自叙伝の一節を読みふけった夜明け。暁の夢うつつのなかで、バイセクシュアルのカミングアウトが私の脳裏に入って来た。

私の34年の眠りの回想からの覚醒は、娘の送ってくれたバリ舞踊の中性舞踊だった。神に捧げる舞踊は、非現実の中性の姿を必要としたのでは? ペーボの姿勢もそれに通じるのでは?



2021.10/4
山の生活第108日。

滝本のヘルパー仕事に出かける朝は、
カラスも2羽で鳴き交わしながら、
出発の準備をする。

白いエスティマの目的地点は分かっている。
2羽は、樫原奥の杉から
狩場野目掛けて急降下し、
大圏コースで先回りし、
滝本の基地局のアンテナの尖端にとまって、
県道をうねって降りてくる車を待っている。

帰りは、私が近所で油を売っていても、
辛抱強く待っていて、
2羽で連携しながら、
車の直ぐ前を翔ぶ。



2021.10/3
山の生活第107日。

晴天2日目をいとおしむ。
家中の衣類を日に干し、
納屋の片付けを終え、
子供達の過ごした納屋の二階で、夕景を見る。

息子が、夕日を追いかけたように、思わず小麦峠まで、走り出た。



2021.10/2
山の生活第106日。

家人の故郷、印南本祭の日。
祭の日は、常に晴天というジンクス通り
晴れ渡った樫原奥で、
15年以前のアルバムで偲ぶ。

同じ日、
印南の祭りの源流と感じると家人も言う、
バリ島まで、
南島回帰の憧れをさらに伸ばす、
沖縄の娘は、
バリ舞踊のイベントの応援で一日を過ごした。



2021.10/1
山の生活第105日。

午後、久しぶりの青空となった。
夕方、夕日を見ようと
小麦峠まで行くのに、
向かい風がすさまじかった。
夕映えは、キッチンの窓から。
心なしか、薄暮の時間が短くなったように思えた。



2021.9/30
山の生活第104日。

滝本のヘルパー仕事に間に合うよう
樫原道を自宅まで帰る1キロ余り手前で、
枯れて
幹の断片を少しずつ道路に落としていた
楢の木の 、最期の遺物の
巨大な根っ子に遮られた。

ヘルパー仕事のため、
滝本への行き帰りを歩く覚悟でいたが、
善意に助けられ、車で往復出来た。



2021.9/29
山の生活第103日。

天満まで、用事で山を降りる途中、
西中野川トンネルへ下る、 小色川への旧道の起点でもある所に祀られる、
永興禅師の墓に詣でる。

日本霊異記下巻(764年〜822年の仏教説話をのせる) 巻頭に載せられている、孝謙天皇の時代の東大寺華厳宗の高僧という。

旧道を少し下りたところには、50年以上前に、行者さんもすみついていたそうだ。

直柱の古老から、
隣の直柱の谷から山を越えて
お母さんにつれられて
病気をご祈祷で治してもらいに
通った話を聞いたことがある。



2021.9/28
山の生活第102日。

なかなか晴れない。
キッチンの残り物に僅かの糧を求めて、
暖竹の茎にミエバエが止まっている。



2021.9/27
山の生活第101日。

滝本のヘルパーを終え、山に登る途中、ふと、手の届くところにある朴葉を見つけた。
朴葉味噌を14年前に塾の教え子から修学旅行のお土産にもらったことを思い出した。
山の 大きくて広い葉は、貴重だ。虫に噛られて可哀想と言いながら、私も、一枝。



2021.9/25
山の生活第99日。
奥の家のコナラは、終盤に。
換わりに、小麦峠のドングリ(右上)、
須川邸近くのイチイガシ(左下)が、
少し増えた。
アカネズミも1個齧っていた。
須川邸に君も移動したんかな?



2021.9/24
山の生活第98日。

今日は、旧暦8月18日。
昨夜天満で立ち待ち月を眺め、
今日は、居待ち月。
上古の月を眺める生活を想う。



20219/23
山の生活第97日。

秋分の日。
海辺の勝浦、新宮で50歳の4月から、15年間塾講師をした。
文系出なのに、高校数学に救われた。
太陽や月を仰いで、
螺旋状の年月・季節の廻りに吐息する時、
いつも脳裏に浮かぶのは、サインカーブだ。

スマホの AMEBAの記事に、
エクセルでの
昼の長さ、日の出・日の入り、南中時太陽高度のサインカーブを見つけた。
自分で描くサインカーブは、
何時もこんな調子だが。



2021.9/22
山の生活第96日。

樫原奥のキッチンから秋の夕暮れ。



2021.9/21
山の生活第95日。

水に浸けて、アクヌキしただけの
家のコナラは、すり鉢で簡単に摺れた。
思いついて、米粉をまぶして小さな団子にして、オリーブオイルでイタドリ少しと炒める。
桑の葉で、鮎の塩辛を使ったなれずし試作品、定番の粉食簡単パン、私の気紛れで、豊穣な食卓となった。
だが、他の生き物の命を繋ぐ食べ物を横取りした後ろめたさがあった。
家のコナラは、もう実を落とさなくなってきた。アカネズミが、貯蔵する分を団子にして、
食べたのでは?
パーマカルチャーは、
あまりに人間的過ぎるのでは?



2021.9/20
山の生活第94日。

マリアカラスとマイカラスの一文を、
と、何回となく思っていたが、
そんな駄洒落ではすまされないと感じ始めた
今日この頃。
10年以上前から、もう何代にもわたって樫原奥の家にいるカラス。

ヘルパー仕事のときは、滝本まで2羽が先導し、樫原に帰るまで、遊びながら待って居る。
上る途中で、停車するところの梢にとまって最後のおやつをもらって解散。



2021.9/19
山の生活第93日。

明日は図書館に本を返そうと
桐村氏の本をさあーっと見ているうちに、
宇江敏勝氏へのインタビューの項に、
近影を見つけてハッとした。

熊野入りした時に宇江先生と対談させていただいた頃、その後の15年程前に樫原の狩場神社祭にぽっと来てくださっていた頃、
何処かに文学青年の俤を残しておられたが、80代になられた写真は、
揺るぎない山人の相だった。



2021.9/18
山の生活第92日。

明け方5時頃が雨のピークだった。

道路が川のような状態が、
午後日が照りだしてからも、終日続いている。



2021.9/17
山の生活第91日。

ススキ、チカラシバ、シソの穗がやっと出た。
樫原では、これらさえ、
フェンスで囲ったシードバンクでしか残らない。



2021.9/16
山の生活第90日。

小麦峠のイチイガシのドングリが
枝ごと落ちていた。
猿は来ていないようだし、
折口が、平面なので、風で折れたのだろう。

大分たまったので、水に漬けるだけのあくぬきで、ドングリ粉にした。
豆乳の副産物の生オカラも
粉で保存。

だが、
貯め込む習性は、どこから来たのだろう?



2021.9/15
山の生活第89日。

谷川健一氏の『青銅の神の足跡』は、
紀伊半島入りする時、コピーしか持ってこなかった。それを、子どもたちが幼児の頃、地図帳を横に置いて楽しんだ。

白鳥伝説に謎の氏族鳥取氏を探る という
河内の考古学者山本昭氏の本(1987年刊)がポストに届いていた。
里帰りして新宿の紀伊国屋書店本店で買って行こうかどうしようかと逡巡して結局諦めた本を30年後、やっと手に入れた。

鳥と金属鉱脈、犬と金属鉱脈 。私の 今も温めているイメージだ。



2021.9/13
山の生活第87日。

國學院流の石の民俗の調査で1974年に熊野入りされ、近大に赴任した1988年から、
熊野を集中して歩かれた環境民俗学の提唱者 野本寛一氏の本の中に、那智大社の扇祭の項があった。
扇神輿の基部につけられた ヒオウギをみて、樫原の狩場神社の境内に沢山あったと思い、
覗いてみたが、皆無だった。
アヤメ科なので、樫原の鹿は、食べるようになったのかもしれない。

滝本の小学校跡に2、3株地元の人が移植したヒオウギは30株ぐらいに増えていたのだが。



2021.9/12
山の生活第86日。

胃が重く、無性に発酵物が食べたくなり、
スマホで 発酵の要らないパンをみて、
30分余りで焼き上げる。
豆乳、オリーブオイル、ヤマモモの葉の粉末 は、アレンジしたが、
願い通り、パンを食べられた。



2021.9/11
山の生活第85日。

ヤマブドウならぬノブドウが、
枝垂桜の枯木に巻き付いている。
属がちがうので、ヤマブドウやエビヅルのようにはヒトの食用にならない。
朝から、ヤマガラが盛んに食べている。



2021.9/10
山の生活第84日。

朝から、図鑑とドングリとにらめっこ。
どうやら、葉柄が長いことから、家と、少し先の小麦峠で拾ったドングリは、ミズナラよりコナラというべきらしい。この2種の雑種も有るということだが。
小麦峠で昨日見つけたどんぐりは、常緑のウラジロガシらしい。
落葉広葉樹と照葉樹が、辛うじて接している処なのだなあ。



2021.9/9
山の生活第83日。

町の図書館の郷土資料室で、禁帯出でない本を矢継ぎ早に4冊、あとの一冊は、ネットの古本で人気で 手に入らず 35年前に親しんだ谷川健一氏の地名に関する本を借り出す。

家でよく見たら、3/5は、桐村英一郎氏の本だった。
東京出身で 定年まで朝日新聞主幹級の道を極められ、その後、明日香村、現在は、三重県熊野市波田須町に住まわれている氏の淡い感性に 不遜な言い方だがノスタルジーを覚える。今は、山姥と化している私だが。
それに、波田須の海は、徐福伝説もあり、これも不遜な言い方だが、家人の犬飼場として、私も初めて熊野に降り立った場所なのだ・・・、
そのインスピレーションのさきで、はっと、閃いた。
今、樫原の奥で本拠としている須川邸を訪れた畝畑の野尻氏が、一世代前に須川邸の有った北ノ川への荒山道を案内した時、須川氏一行のなかに、妻君を伴った桐村氏がおられたことを。

その時のことも桐村氏の本のなかに記されていた。

今、樫原に棲むことの縁を感じる。



2021.9/8
山の生活第82日。

役場と社協に出向く為、少し重い気持ちで山をあとにする。
西中野川林道から西中野川トンネルへ降りる町道で、重い気持ちが晴れた。
青い椎の実一房と、
その先の 昔植林されたスギを椎の木が凌駕している小道を眺めて。



2021.9/7
山の生活第81日。
明け方、夢うつつのなかで、スマホを繰って、栃の実の焼酎漬け、効用、毒性などあれこれみる。
小雨の降る一日、結局、ゴソゴソとキッチンの掃除をして過ごした。
その間の製作物は、
塗布用栃の皮の焼酎漬け、
栃の実の粉末の焼酎漬け、
クッキー状態粉末、それに、焙煎粉末。



2021.9/6
山の生活第80日。
滝本の人に案内してもらい、
宝竜の滝からの伏流水の左岸のトチノキの大木を見に行く。
3年前に栃の実を拾った処だ。
親の老大木が、流れのごつごつした石の間に実を落としていた。
案の定 猿が先に来ていて、皮を剥いで行った形跡がちらほら。それでも、20個ほど、大石の隙間から見付けて持ち帰る。
アク抜きの難しさは承知の上だが、
今回は、貴重な栃の本性を探るべく、
すぐに、栗を剥くように皮を剥き、1回水溶性のタンニンを ゆでこぼして、一晩ボウルに浸けて 就寝。



2021.9/5
山の生活第79日。
朝、犬の餌やりの帰り、家の青いドングリを拾う。ヒト:アカネズミ:虫 = 11:1:1 位かな。
アカネズミも本来の餌に走ったらしい。
夕、家のカラスが、青柿の食べ残しを道に落として行った。
老木にも今年は、実が成っているよ、と、教えてくれたのかい?



2021.9/4
山の生活第78日。
紀伊半島第水害から10年経った。
日曜日の明け方のことだった。

同じ日、娘の信奉して止まなかった
指導教授が、
久高島の波乗りのさなか亡くなった。
娘が、院生として歩み始めた時だった。

樫原の静けさのなかで、
時は、流れつつ、かつ静止しているように、
と、願う。



2021.9/3
山の生活第77日。

アカメガシワの下に停めている老体のエスティマのフロントガラスに
アカメガシワの落葉。秋になったなあ。
ぱらぱらとはじける小さな黒い実は、エンジンルームに入っていきそうだ。

でも、ちょっと毒っぽいその実を、
ヒヨとヤマガラが群れて、
盛んにのみこんでいる。
おしゃべりが上手なのは、
ヒヨのほうのようだ。



2021.9/2
山の生活第76日。
新宮市滝本からの帰り道、
地蔵尊の祠近くの楢の木のドングリが気になって車を停める。
家のドングリと同じ青い実を付けていた。
手を伸ばして実を5,6個もらった。
充実しているようだが、葉には、虫コブができていた。
スマホで調べると、ナラハタイコタマフシの幼虫の住処の跡とのこと。



2021.9/1
山の生活第75日。
エネルギー保存、一筆書、簡素を旨に、
朝食まで動く。
自然と定位置も得て、
青いドングリ入り茶粥が出来た。
今朝のドングリもアク抜きをセットして、
いざ、試食。
ドングリは、無味無臭だが、お腹の足しになりそうだ。





2021.8/31
山の生活第74日。
熟す前に青いドングリしか落とさぬ
家のミズナラ。
それでも、殻を割ってみると、
虫が入った痕跡。
ミズナラの戦略として青いうちに実を落としてしまう。
虫の攻撃が多くて、熟して茶色になる実が皆無なのだ。
実りの9月を迎えられるのかどうか。



2021.8/27
山の生活第70日。
昨日の外竈での火の使用が、35年前の
紀伊半島入りした頃の記憶を呼び覚ます。
在来日本犬資料誌『牙2号にまとめた参考書誌の抜刷を送った 環境考古学者 宮本善憲氏が、
2001年の鼎談のなかで、「人間は、1万年ぐらい前から、火を使って大規模に森を破壊している」と、言っておられた。それからまた、20年経って、この言葉は、はたして現代的意味を持ち続けているのかどうか?Amazonで2010年代の氏の本を注文した。

抜刷の返礼に、自然科学と考古学学会で面識が有ったのみの私に対して、“やっと、よいフィールドが見つかったようですね。”と、書いて下さった。

30年の眠りから覚めて、これからだと。
気負わずに歩かねば。



2021.8/26
山の生活第69日。
昨日、滝本道で ナラの枯れ木が擁壁の上から県道端に落下して集積しているのを
家に上るついでに車に積んできた。
今日は、それを外竈にくべて、
小振りの釜でクサギの葉を蒸し、
空煎りして即席の茶を作った。



2021.8/24
山の生活第67日。
水は来てるかな?と、裏窓から見ると、岩に映る水面の揺らぎで分かった。
すぐ横に、蘭の紫の花も揺れていた。



2021.8/23
山の生活第66日。
雨で止まっていた谷水を水源から連れて来る。
家に帰ると数秒後、
水槽に水が落ちる音。
歩く速度がほんの少し速かった。
道のわきに白い毒キノコが。



2021.8/22
山の生活第65日。
いつもの鹿だろう。玄関前で草を食んでいた。



2021.8/21
山の生活第64日。
徒長したツユクサを抜いて玄関前に積んであったのを、留守中に、鹿が葉を食べていた。
鹿の食事の足しになった。
8月12日生まれの孫の名は、葉介。
回りの者への葉の恩恵のような存在になってほしいと、ひそかに想う。



2021.8/19
山の生活第62日。
深夜キッチンでガタッという音。
行ってみると、団子入麦茶粥の蓋が落とされていた。
あの力持ちのネズミの仕業と思って大きい蓋に換えて様子をみると、
今度は、少しだけ蓋をずらして、
手ナベの横からこちらを正面から睨んでいた。
ヒメネズミより一回り大きいアカネズミだと図鑑をみて納得した。区別は、眼窩の辺りだという。



2021.8/17
山の生活第60日。
樫原奥の通信のインフラが整った。
雨の中、Wifiの工事敢行に感謝。



2021.8/15
山の生活第58日。
雨の盆。
犬たちも静かに過ごしている。
彼等の先輩の霊は、
帰らずにいつも山にいると想っている。
その資料を纏めていくのが、私の山の生活の
アウフガーベだ。



2021.8/14
山の生活第57日。
カマドウマやキリギリスも
家に入って雨宿り。



2021.8/13
山の生活第56日。
例年どおり、早朝、
太田の御寺に御施餓鬼の供物をして、
万物の霊の安寧を願う。
雨のお盆になりそうだ。



2021.8/12
山の生活第55日。
大安吉日の今日、西宮の息子に様子を聞くラインを、と、思っていた矢先、息子からラインがはいった。
安産で男の子が生まれた、と。



2021.8/11
山の生活第54日。
野分に吹き寄せられた枝葉の県道を、
盆のお供を買いに降りる。
中学生ぐらいの縞蛇が、エサ取りのために道をよぎるのを待つ。200以上ある椎体の1つが傷つけられただけでこのヘビは生きていけなくなるのだ。
動物考古学の調査で気仙沼の貝塚の膨大なイワシ類の椎体の中に混入していたヘビの脊椎骨を教えられた20代の日のフラッシュが甦る。
帰りついて、師の一代上の研究者の本を引っ張り出した。



2021.8/10
山の生活第53日。
昨夜の余韻で、枕草子の、「野分のまたの日こそ」を読んで、
家の外に出た。
樫原の野分のまたの日は、青空と、ドングリ子どもだった。



2021.8/12 山の生活第55日。 大安吉日の今日、西宮の息子に様子を聞くラインを、と、思っていた矢先、息子からラインがはいった。 安産で男の子が生まれた、と。 2021.8/9
山の生活第52日。
台風の雨が通り過ぎた滝本に、
畑を荒らす5匹の猿の群が来たという。
レトリバーのイチがいるときは、垣も要らんかったのに、と、畑の主。
そう言えば、下地の人の斑犬は、
仕込まれて、鹿は自分で獲るけど、
猿は追わんね。賢いんやね。と、も。
家の 山から出てきて居ついてしまった 斑犬のマンちゃんは、
猿に一回遠吠えしてみたものの鹿や猪には知らん顔やなあと、思いつつ
『年中行事絵巻』の
大饗のエキジビションに出かける
鷹飼一行の騎馬上に抱かれる犬は、
白犬だが、
正月4日の東三条殿の宴会の
鷹飼に従う犬飼の牽く犬は、
斑犬だ 、などと、
ページをめくりながら、
早めに就寝してしまった。





2021.8/8
山の生活第51日。
家のヤマモモは雄株で、実は成らないが、
葉をレンジで2分、粉にして、
スパゲッティーにかける。
石垣に自然に生えた10年生の松の一枝が、
爽やかなジュース3回分。
人間的食べ物としては、罪が無い部類かなあ、と。



2021.8/7
山の生活第50日。
今日は、立秋。
台風10号、9号の影響で、断続的な雨の中、奥の家の回りのシダを、 雨でゆるんだ地下茎ごと引き抜いて、
試みに土間にしようとしているところに敷く。
抜いて疎らになったシダの間からは、以前種を撒いてあったクローバーが、顔を出していた。



2021.8/5
山の生活第48日。
西に開けた樫原は、夕日の美しい処だ。
夕空を眺める習慣を、
西宮浜でも持ち続けているだろうか。
息子が、父となる日も近い。





2021.8/4
山の生活第47日。
キッチンの訪問者、アカネズミ。
単独でも、荒仕事をする力と気力持ち。
クッキーの残りを入れた缶の蓋だけ テーブルの下に落とし込んでいた。
中身は、気に入らなかったらしい。
缶の蓋に、齧歯類の歯形を見つけて、
彼の奮闘振りを想像した。



2021.8/2
山の生活第45日。
ヤマガラは、人の手からもヒマワリの種をもらう人懐っこい鳥と、スマホで見た。
毒のあるというエゴノキの実も中の核を取り出して食べるそうだ。
そういえば、鹿の食べ残すボタンヅルの花を啄みに来ている。



2021.8/1
山の生活第44日。
大型の外竈や平鍋、積みっぱなしの本や書類。
昨日の午後は、籠から2度のエンストを起こさせてしまった。
坂足で、積み荷をおろし、家まで行って、書類をおろし、雷雲のなか坂足にもどって、2回に分けて、積み荷を定位置に分配した。
小さいプレオが、本当の山の生活に入るよう教えてくれた。
今朝、プレオも 私も、身軽になって、良い目覚めを迎えた。



2021.7/31
山の生活第43日。
旧暦6月22日。
晩夏と言ってもよいなあ、と思いつつ見上げると、イヌマキの高い生垣の上に、クズの花。



2021.7/30
山の生活第42日。
クチナシの甘い薫りに換わって、クサギの少し白粉ぽいかおりを風がはこんでくる。
花が終われば、紺色の実をつけるだろう。
多分9月を待たずに



2021.7/29
山の生活第41日。
朝、鳥たちも、イネ科植物が少なくなって、大丈夫かな、と、ふと心配しながら、奥の家の前に立つと、ヤマガラの群れが、地鳴きをしながら、弦や、杉枝の間を渡っていた。彼らは、大丈夫のようだ。弦を良く見ると、アケビの実が。



2021.7/28
山の生活第40日。
渓水を引いてくるパイプの噴水が今日は、4メートルに。
それでも奥の家まで来ると、チョロチョロに。



2021.7/26
山の生活第38日。
シダに守られて、ノアズキの三葉と弦を発見した。20年前には、黄色い花が咲いていた場所に1本だけ。



2021.7/25
山の生活第37日。
西中野川トンネル入り口で、旧暦6月15日の夜半の月を眺めながら、
浜木綿を素材とした歌を冒頭に配置した、
柿本人麻呂の み熊野相聞歌(巻4,496~499)のことをうつらうつら思って明け方まで過ごす。
701年(大宝元年)文武天皇従駕での紀南の旅のとき、人麻呂は浜木綿を観ていたのだという。ただ、浜木綿は、序詞として彼の虚構の叙情世界を描く道具になってしまったんだなあ、と、ちょっと残念な気分。
ところで、西中野川トンネルから上っていくと、高麗地蔵の祠がある。立札に由ると、750年ころ、孝謙天皇をお招きしたときに建てられたと言う。
文武天皇の孫にあたる女帝だ。





2021.7/24
山の生活第36日。
町立図書館に本を返却に勝浦に下りた夕方。湯川の駅の浜木綿を写真に納めた。
花が終わった基部に大きな実をつけ始めていた。
椰子の実と同じ漂流して流れ着いた処で殖やす戦略も持つという。





2021.7/23
山の生活第35日。
去年の台風で根こそぎ倒れた杉の根っこを横から観察して納得した。水田跡に植えた樹の根が横に拡がることを。




2021.7/22
山の生活第34日。
久振りにイノシシが籠方面から樫原奥に廻ってきた。
多分若い、立派な半月状の牙を持ったあのイノシシだ。
一番奥の3軒目で、狩場野に下りて行った。



2021.7/21
山の生活第33日。
一日で、赤く日焼けした梅干。
そのまま夜露に。



2021.7/20
山の生活第32日。
渓水を引いてくるパイプのエア抜きが、
噴水となって、午後の木洩れ日をうけて、
虹がかかっていた。



2021.7/19
山の生活第31日。
今日から夏の土用入り。
日中は、樫原や滝本も暑かった。
でも、梅の土用干しは、もう少し様子をみたほうがいいね、と、滝本の人と話した。
小麦峠の夕映えに、積雲が浮かんでいた。



2021.7/18
山の生活第30日。
雨が、道路を流れていく。
昨日から祇園祭、と思いながら、
『年中行事絵巻』の巻九 「祇園御霊会」を
細部まで視ていたら、夕方になっていた。
旧6月14日の還幸の列見所付近の
3つの神輿、宮主、神楽、獅子舞の群像が、動画を見るように生き生きと描かれている。







2021.7/15
山の生活第27日。
Amazonで買った『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』を、柴田翔より一世代前の独文学者 山下肇氏の訳で読み始める。今更ながら。
第1章 聖家族
主人公と共に、山中を遍歴するような気にさせてくれるゲーテの描写力に感謝。



2021.7/14
山の生活第26日。
梅雨明けになるかも、と、
朝、樫原の北端の小麦峠から、果無山系を望む。
雲海もなく、梅雨空だった。



2021.7/13
山の生活第25日。
町の図書館で借りた本の訳者に懐かしい名が有った。
柴田翔。
初刊から10年後の1974年に読んだ『されど、われらが日々』。
丁度学部を終える時、柴田翔の描く青春群像にわが身をなぞらえて、胸騒ぎを禁じ得なかった記憶が鮮烈に蘇った。
恐る恐るスマホで現在の柴田翔を調べた。
86才の好々爺の写真に安堵した。
遠縁のゲルマニストから、他校から院生で入学した時のコンパで柴田翔と同期だと分ったこと、その時の細面、横座りの彼の様子を聞いたのだが、それから46年後の写真に、彼のその後の順調な人生を見た思いだった。
スマホの記事で、新たに知ったことがある。
柴田翔は、学部を理科から文科に変わった為、1年多く学部をすごしたこと。
自分の見た青春群像を、われらが日々として
書いたが、その青春群像を肯定しながらも、なお、やや、距離感が有ったこと。
ああ、それで、私の忘れ得ぬ愛する言葉、“されど“ が、タイトルの始めに付いたのだ!



2021.7/12
山の生活第24日。
高い石垣に見られる鹿の食痕のライン。
2、3年前までは、茅が石垣の隙間から、
一面に垂れていた。




2021.7/11
山の生活第23日。
西に開けた、樫原のいちばん奥の家。
クサギの白いつぼみが目立って来た。



2021.7/9
山の生活第21日。
西中野川林道のレモンエゴマ。
舗装の縁石の僅かな隙間に根を降ろして育ってきたものは、体は小さいけど、群生のものに比べて虫も着きにくいようだ。



2021.7/8
山の生活 第20日。
窓辺の植込みの、鹿が背伸びして食い尽くした八重のクチナシも上の方にかたまって、異常なほど沢山の蕾をつけていたが、2輪開花した。




2021.7/7
山の生活 第19日。
七夕の低く垂れ込めた空。
古い星座盤を代わりに仰いだ。
芭蕉が、越後路出雲崎の七夕の句会で詠んだという 、
" 荒海や"の有名な句は、
やはり、冬の日本海を隔てて佐渡を臨み、横たわる天の川を、想像して詠んだのだろうと、
星座盤の月日を合わせてみて納得する。
七夕の夜は、佐渡の島影を横断するように天の川が架からないことは、芭蕉は、承知しながらも敢えて。



2021.7/5
山の生活第17日。
明治神宮の森に育てられたような私。
21年前、大塔山系から、ここ那智山系へ移って来たとき、那智山に明治神宮の森が在ることを知り、縁だなと思った。
今、明治神宮北参道側の樹齢150年のくぬぎに病魔が忍び寄っている。防御策に効果があると良いのだが。



2021.7/2
山の生活第14日。
昨日からずっと雨。
auのアンテナの横が川になって県道に流れ落ちている。



2021.6/29
山の生活第11日。
朝、郵便受けにAmazonで求めた2冊の本が届いていた。
ミヒャエル・ホルツァハの1982年刊のは、『これもドイツだ』Deutschland umsonst 。
副題のohne Geld と、愛犬を連れての徒歩旅行の記憶をたよりに見つけ出した。1987年紀伊半島に来るきっかけとなった本だ。娘は、翌年生まれた。著者は、1983年に亡くなっていた。
2002年刊のホロビンの本は、
彼の知的探求の旅が、医学生でナイロビで医療サービスに参加していた時に、解剖学の教授に70万年前の遺跡を見に行くように勧められたのを発端としている点で、興味を持ち、刊行の4年後、大学生として、沖縄に旅立つ娘を、紀伊田辺まで見送った降車間際に手渡した本だ。
今も首里の娘の本棚の隅に眠っているようだ。著者は、2003年に亡くなっていた。
今日は、娘の誕生日。



2021.6/28
山の生活第10日。
今日は、日没が一番遅い日なのだそうだ。
昼の長さは、少しずつ短くなっているけれど。
鹿の食べない植物、優雅な名を持つ未央柳の黄色い花、高貴な香りの定家蔓の群生を雨のなかで眺める夕方。




2021.6/27
山の生活第9日。
早朝、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を捧げたシュワイツァー博士の伝記の年譜を読む。
夕方、伝記の著者、山室静氏が北欧文学研究者と知り 、片付け中の家の整理中の本のムーミンシリーズの積んであるところへ行ってみた。翻訳者は、やはり山室氏だった。
その一冊の解説者、フィンランド文学研究の高橋静男氏の言葉を拾って、納得した
ー シュワイツァーの『生命への畏敬』の思想と生涯の謎 ー を。
    私の 山の生活 もまた、
多くの生きとし生けるものとの共生を求めての 勤しみなのだ。



2021.6/26
山の生活第8日。
那智浜を出発して、樫原の奥に辛うじて残る3軒の家の回りを少しずつ片付けながら最奥の家に帰り着き、図書館で借りたシュワイツァーの伝記の小さな本を読む。30歳までは、音楽、哲学、神学の道を勤しもう、しかし、それからあとは、直接に人々のために身を捧げるのだ、という心のひらめきを着実に実行して、アフリカへ向かうまで。




2021.6/24
山の生活第6日。
朝に、レイチェル・カーソンの前書きを開いた。
夕に彼女の魂の系譜の著作を手許に列べた。只、シュバイツァー博士の本は無く、オルガニストでもあった博士の縁として、60年前に買ってもらった木のオルガンを偲んだ。






2021.6/23
山の生活第5日。
役場から山に帰る途中の西中野川林道。10年前からその盛衰を見てきたエゴマ。今は、林道登り口の道の端、落石集積場所に群落を作っている。
ネット上で長崎市の美しい山道の花の記事を見て、京大の論文の分布図も参照させてもらい、レモンエゴマであることを知った。その山道も鹿と出会うことが多いという。
鹿のせいで、植生が変わる度合いは、こちらが進んでいると思う。




2021.6/22
山の生活第4日。
滝本から旧道を登ってくる樫原道の地蔵尊の祠の上のヤマモモの老木も、今年は、小さな実を落としていた。
それにしても、樫原を南に下った西中野川の里の栽培種との大きさの違うことと言ったら。



2021.6/21
山の生活第3日。
夏至の日の夕日は、雲のヴェールに隠れて。
その代わり、山の家の西の端に立つ杉の巨木のもとに佇むと、串本の大島が見えた。ゆっくりとタンカーが航行し視界から消えて行った。



2020年3月9日



日めくりに目が行き、今日が、旧暦の2月15日と知った。
涅槃会に寿命が尽きることを願った西行が逝った2月十六夜の月。
西中野川林道沿いに咲き初めた山桜に、西行の最後の庵に後世植えられた千本を超える桜を偲んだ。


2019年11月



今年も狩場刑部左衛門の神社のお祭りが滞りなく終わった。石垣のセンブリの可憐な花も。


2019年10月



ガマズミ、フユイチゴの赤い実が熟した。


県道沿いの崖に今年もツルリンドウの青い色が灯った。


台風一過の夕空


2019年8月17日
台風10号一過の樫原から瀧本の杉枝の散り敷かれた県道沿いに、瓜坊、カモシカ、子鹿がよぎった。
最後にいつもの定位置に、黒さんが待っていた。皆、無事だったんだ。


2019年8月13日
1年たつのは、はやい。大泰寺でのお施餓鬼は、ことしは、台風前夜の中。供え物を施餓鬼棚の前に届ける。
人間以外の全ての霊を思うこの行事が好きだ。


2019年3月26日
満開の桜の背後に峯の山



2019年3月16日
思いがけない3月の吹雪



2019年3月11日
西中野川林道から満開の山桜越しに口色川の連峰を望む。



2019年2月14日
瀧本の黒さんと同胎のチャトランが逝った。窓ガラスに鼻面を擦り付けた跡。



2019年1月9日
新年の嬉しい発見。ルビーのルビーのようなフユイチゴの実。フォン・シーボルトも愛した植物だ。



2018年12月22日
温かい小雨の中、冬至を迎えた。


2018年11月1日
例年の如く狩場刑部座衛門の神社の祭が執り行われた。センブリの白い小さな花が咲き祭りのあとのローズピンクの夕映えが美しかった。







2018年10月
自宅の県道沿いにアケビや、サルナシが実り、椎の実も落ち始めた。今年は生り年だ。







2018年9月4日
台風21号、朝から夕方まで籠に車を停めて風の道を見ていた。

 
2018年8月29日
野分の後、実りの秋の予兆。





 

2018年8月25日
早朝樫原に入った。倒木も片付けられており、滝本まで行けた。

2018年8月23日
台風20号上陸に備えて、天戸をたてた。山犬の万は、餌を食べに来なかった。山の奥に避難したのだろう。午後から夜半にかけて風が吹き荒れた。

2018年8月13日
大泰寺、お施餓鬼供養の朝5時





2018年8月11日
盆を迎える夕空


2018年8月7日
立秋を忘れず涼風が立った。

2018年6月21日
夏至の夕日を惜しんで、瀧本と樫原を行きつ戻りつした。

2018年3月30日
大奥方のO.SACHIEさんが山を下りて行った。
「無理すんなよ。」の言葉を遺して。