日本犬科学研究室-日本犬資料誌『牙』-

ZIN 日本犬科学研究室
那智勝浦町色川樫原
TARO 人を犬に問う 自然史・文化史

日本犬資料誌『牙』No.4
     〜金属鉱脈と犬・鳥IN熊野〜

2023.7/14
那智の火祭りの朝、
時を違わず、
樫原の奥の家にも、
扇柱の足元に飾られる
桧扇の花が咲いた。
扇御輿と大松明と
カラスに扮した権宮司による
扇褒め儀礼。
農耕儀礼に変貌した祭の
基底にある
金属鉱脈の神々の姿を
想い描いている。



日本犬資料誌『牙』No.3
     〜シーボルトのヤマイヌ・オオカミ・
         飼犬サクラ・シロ・アカ〜

2023.4/9
川原慶賀『唐蘭館図(長崎市立博物館)』にみるシーボルトの出島家族の肖像
川原慶賀晩年の作(1854年頃)と伝えられる蘭館図10枚のうちシーボルトとその家族をモデルにした3図が含まれる。
1829年12/30 シーボルトは出島を出発した。
出島出入り絵師としての最後の8年間を
シーボルトに仕えた慶賀の脳裏には、
晩年に至るまで、
シーボルト家族の有り様が鮮明に焼き付けられていたのであろう。
大和絵風や中国写生派風の絵師時代に対し、
慶賀の晩年の作風は、
人の様々な表情を諷刺的に描いた
ヨーロッパ版画の影響を受けて変化している。長崎出島のエキゾチックな光景は、
開国後の日本人の興味に応じたものであったらしい。
ルイ・ボアリーの石版画から借用という
慶賀〈紅毛人接吻図〉の背後に描かれたのは、
シーボルトと1825年以来のシーボルトの二人の助手フィレネーフェとビュルガーに見える。
シーボルトの緑の帽子は、学生団体メナード団以来のトレードマークであったし、フィレネーフェのシルクハット、ビュルガーの眼鏡も
慶賀の脳裏にパターン化されていたと思われる。
シーボルトの出島家族は、
シーボルト・奥さんのソノギ・娘イネ・召使オルソン・飼犬Wit(オランダ語で白の意)・Viu、と、想像する。
慶賀の蘭館図にもViuを除く出島家族が、
描かれている、と、私は考える。



2023.3/6
山の生活第626日。
今年も涅槃会・西行忌が廻ってきた。
シーボルトの飼犬サクラの命名に言及する。
シーボルトがサクラと出会ったのは、出島の中か、外出が許されていた鳴滝塾までの町筋だ。
狩り犬のモデルとして手書き文書に記載したと思われるので、出島生の狩犬を飼い犬にしたと考える。
そして、後述するが、出島での呼び名は、
viu であった。
帰国して30年後の1860年にも 、
剥製となった展示物を、
viuと呼んで回想している。
出島に植栽した植物のリストの中には、
花を愛でる桜は、無かったようだ(池内一三 「出島の植物園と鳴滝の薬園」『新・シーボルト研究T 』1~27頁, 2003年)。
では、Sakura、と、殊更に、
生体計測やスケッチに、
記入させたのだろうか?
それは、
福岡藩主黒田斉清(33歳)と
シーボルト(32歳)との
鳥や動物の剥製のおかれたシーボルトの部屋での、須臾の間の会見の印象ではなかったか、
と、私は、想像する。
文政11年3月5日(1828.4/18)午後、
黒田候は、持参した桜図と
シーボルトの部屋の窓のそとの植え込みの枝を指して、野生種と園芸種の別を示した(宮崎克則 「文政11年(1828年)、出島で会ったシーボルトと福岡藩主黒田斉清」『西南学院大学博物館 研究紀要 』第4号、1〜24頁)。
その印象は、1828年秋の帰国予定のシーボルトにとって、唯一無二のものだったのではなかろうか?



2023.2/22
それぞれのオオカミ像
2023.2/19放送のNHK「ダーウィンが来た」の
松尾ディレクターのポートレイトを見て、1994年秩父以来30年のオオカミ像の実りに
心充たされ、
さらに次のステージに踏み出そうという
意欲が伝わってきた。
1987.5/17、東京の恩師のもとを去り、
紀伊半島入りして47日目に
出会ったイヌが、私のオオカミ像となった。
最後の種族Zと龍神の神を取って
Zinと名付けた。
1987年8月の『牙』2号発刊、その返礼に
久我光雲先生から頂いた
ライデン自然史博の
3頭の犬の頭骨写真、
シーボルトの狩犬とニホンオオカミの剥製、
同じ保管棚に一括しておかれていたテネシー産オオカミを含む4個の頭骨写真。
1997年には、国立科学博物館分館でM100の頭骨と同一個体とされている唯一の全身骨格をモノクロ写真に撮影する機会を得た。
これらは、松尾ディレクターの素材と重なっている。
そして、私のオオカミ像は、依然として
ライデンの頭骨cに照準を当てている。



2023.2/14
ニホンオオカミ研究者八木博氏のオオカミ像
2023.1/11 BBC放送の『野生のイヌ』第3話を
ニホンオオカミ調査研究者の
八木博からご紹介頂いた。
八木氏の54年来の活動の中で、取分け精力的で魅力的で実証的な、
秩父山中に小型カメラを設置して、
ニホンオオカミの活きている姿をとらえようとする活動が、
BBC制作の美しい映像となって公開された。
八木氏の調査研究の道程の半分まで来た
1996年10/14 16:00〜16:30に出会って
時を共有した「秩父野犬」こそが、
八木博氏のオオカミ像となっている、と、
私は思う。
その目撃の第1報を私に下さったのだと回想して感激を新にする。
ニホンオオカミ像は、
ライデン自然史博物館の
タイプ標本から出発するべきという点で、
八木氏と私の立脚点が一致した。
すなわち、
シーボルトのヤマイヌとオオカミである。



2023.2/12
皇帝の飼犬
〜『身分と手職の本』(1568年)より〜
シーボルトの故郷ハイディングスフェルトに近いニュルンベルクで、
ハンス・ザックスの8行詩とヨースト・アマンの自画自刻の木版画114セットからなる本が刊行された。
シーボルトの生まれる230年も前のことだ。
だが、「ヘダンの畑」という意味のハイディングスフェルトは、神聖ローマ帝国の司教領として、中世の面影を残していたと思われる。
聖職者から俗人まであらゆる身分の者がその独自な生きざまを織り成していたその中で、
シーボルトの生も存在したのだと感じる。
シーボルトの自分の飼い犬に対する眼差しも、
その影響を免れ無いと思う。
この版画のなかに刻まれた犬の中から、
4つのタイプを挙げておきたいと思う。
皇帝ー筋骨のガッチリしたマスチフタイプ
君侯ー耳の垂れた中大形のイヌ
タカ匠ーレトリバータイプ
かりうどー細身のグレイハウンドタイプ



2022.11/8
中の家のケヤキの黄葉を眺めながら、70代に入った私の45年前の論文抜刷を手に取る。
1877年大森貝塚を発見し、東京大学の動物学初代教授に着任後、ダーヴィンの進化論を初めて体系的に紹介したE.S.モースの足跡を、
貝塚研究研究史の第1頁と思って
大田区誌に書かせて頂いたものだ。
その中には、先史学の祖、ジョン・ラボックや、チャールズ・ダーウィンのことも触れてあった。1842年当時8歳のラボックは、父君から広大な敷地の隣家に期待していたポニーではなく、すでに有名人になっていたダーヴィン一家が引っ越して来たことを聞く。ロンドンの煤煙を避けてダウンハウスに終生こもり、
自身のコレクションの整理・研究を行った
ダーヴィンの、隣家への最初の訪問以来、
ラボック少年と25歳年上のダーヴィンは、
良き友として、ダウンの敷地の境界の散策路を毎日のように散歩した。
アメリカ東部メイン州のポートランド生まれのモース(1838-1925)と、ラボック卿(1834-1913)
ダウンハウスのダーヴィン。
高名な医師・博物学者の祖父と裕福な医師・投資家を父に持つ22歳のダーヴィンは、
1831年12/27、海軍の測量船ビーグル号に乗り組み、ポーツマスから5年の航海に乗り出す。
同じく高名な医師の祖父、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に持つ
シーボルト(1796-1866)が、
長崎出島を出航し、
オランダのライデン自然史博物館に膨大なコレクションの搬入に成功したのは、1830年である。その時受け入れに立ち合ったのは、
シュレーゲルだ。
博物学を愛し、独学で地位を築いたシュレーゲルの軌跡は、E・Sモースへと連なって見える。
日本犬資料誌『牙』3号に拙抜刷を載せるのをお許し願いたい。



2022.11/8
中の家のケヤキの黄葉を眺めながら、70代に入った私の45年前の論文抜刷を手に取る。
1877年大森貝塚を発見し、東京大学の動物学初代教授に着任後、ダーヴィンの進化論を初めて体系的に紹介したE.S.モースの足跡を、
貝塚研究研究史の第1頁と思って
大田区誌に書かせて頂いたものだ。
その中には、先史学の祖、ジョン・ラボックや、チャールズ・ダーウィンのことも触れてあった。1842年当時8歳のラボックは、父君から広大な敷地の隣家に期待していたポニーではなく、すでに有名人になっていたダーヴィン一家が引っ越して来たことを聞く。ロンドンの煤煙を避けてダウンハウスに終生こもり、
自身のコレクションの整理・研究を行った
ダーヴィンの、隣家への最初の訪問以来、
ラボック少年と25歳年上のダーヴィンは、
良き友として、ダウンの敷地の境界の散策路を毎日のように散歩した。
アメリカ東部メイン州のポートランド生まれのモース(1838-1925)と、ラボック卿(1834-1913)
ダウンハウスのダーヴィン。
高名な医師・博物学者の祖父と裕福な医師・投資家を父に持つ22歳のダーヴィンは、
1831年12/27、海軍の測量船ビーグル号に乗り組み、ポーツマスから5年の航海に乗り出す。
同じく高名な医師の祖父、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に持つ
シーボルト(1796-1866)が、
長崎出島を出航し、
オランダのライデン自然史博物館に膨大なコレクションの搬入に成功したのは、1830年である。その時受け入れに立ち合ったのは、
シュレーゲルだ。
博物学を愛し、独学で地位を築いたシュレーゲルの軌跡は、E・Sモースへと連なって見える。
日本犬資料誌『牙』3号に拙抜刷を載せるのをお許し願いたい。



2022.11/2
シーボルトとシュレーゲルの
7自由科・音楽
シーボルトは家名を上げるという約束を果たすべく、
溌剌として愉快な教養科目の後、
専門学科として医学を修めた。
北ドイツのアルテンベルク生まれのシーボルトより8歳年下のシュレーゲルは、専門科目のなかに思う物がなく(父はシュレーゲルの望みの博物学だけは禁じた)、家業の黄銅匠の傍ら、独学で博物学を学び、ついに、テミンク館長からライデン自然史博物館に招かれ、1858年次代館長となった(『江崎悌三著作集』Vol.1,思索社,1984年,245頁)。1830年のベルギー独立運動に際して、ライデン大学の志願警備兵に身を投じ、研究職を離れている間、音楽を学んだという。
シーボルトにとっての音楽は、7自由科以来一生の伴侶だったと思われる。フォルテピアノを出島に持参し、日本の旋律の採譜も行っている(『新・シーボルト研究U』八坂書房,2003年,1~25頁 宮坂純子・宮坂正英)。
帰国当時ベルギーの独立運動の最中、シーボルトは持ち帰った日本の植物標本の保全に、
危機一髪成功した。
シュレーゲルが再び博物館に戻った時、帰国したシーボルトと邂逅し、交遊が始まる。
二人を結びつけたのは、音楽・音楽性だと私は思う。
先日、大学の語学の1年の時のドイツ語テキストに載っていた学生歌を、
クンツのドイツ学生歌大全集(キングレコード)に見つけた。
叙情的とばかり思って当時は、口づさんでいたのだったが。



2022.10/31
シーボルトのイヌのロマンの数式3+4=7
シーボルトのライデンに連れ帰った犬は
3頭であった、と、2000年の『大出島展』カタログ127頁のキャプションにあった。
また、1988年の『シーボルトと日本』のカタログ99頁には、ライデン自然史博物館には、全部で4頭の日本狼頭骨があると書いてある。
コレクションをもたらしたシーボルトと、
コレクションを受け入れた
ライデン自然史博物館員シュレーゲルを
意気投合させた共通項は、
7自由科(セブンリベラルアーツ)であったと私は感じている。
紀伊半島南端那智駅のヒカンサクラは、
春の訪れをいち早く告げるだろう。
それまでに、
シーボルトの愛犬サクラたちのことを、
少し詳しく此の『牙』No.3誌上で
書いて行きたいと思う。 (暖かい小春の宵にて)



「5頭のイヌの登場」
『牙』No.3で記載する5頭のイヌを紹介する。
山口隆男氏の記事に載せられたオオカミとヤマイヌのスケッチに衝撃を受けた(『どうぶつと動物園』1994年8月号)。
久我光雲氏の『アニマ』(1987年)には、サクラ・シロ・アカに比定出来るらしい挿図が載せられていた。



2022. 8/17
「大出島展のカタログより」
ことの発端は、
2000年秋に江戸東京博物館で購入した、
1600年4月19日最初のオランダ船デ・リーフデ号到着を記念した日蘭交流400周年記念展の
カタログだった。
久我和夫先生のライデン自然史博の剥製写真の
サクラ号の実物を見に帰京した折に購入したものだ。
カタログの126頁には、
サクラ号の剥製写真(3-2-9)の下に、
彩色の施されたサクラ号(3-2-7)のほかに、
二頭ずつの飼い犬の様子をスケッチした
作者・場所不明の図が、
掲載されている。
サクラ、アカ、シロが、
出島で飼育されていた姿を、
フランス系オランダ人で、
シーボルトの要請により1825年にバタヴィアから絵師として派遣された、
デ・フィレニューフェ(C.H.de Villeneuve)が
スケッチしたものと、私は推理した。
久我先生の資料の剥製と頭骨写真、
東洋文庫のシーボルト資料、
『ファウナ・ヤポニカ』、『蘭館絵巻』等を
根拠としての論証は、後に書くつもりだが、
取りあえず、
大出島展カタログより
サクラとアカ(3-2-5)
サクラとシロ(3-2-6)
シロとアカ(3-2-8)
3組のスケッチ図を紹介する。



2022.8/12
「ライデン自然史博所蔵品との
35年の縁」
旧暦七月十五日の今日、
シーボルトのライデン自然史博物館の
イヌ類所蔵品の研究の再出発を決意。
東京を起って熊野に入った昭和62年8月、
前年の秋にシーボルト学会で面識を得た
柴犬保存会の 故・久我和夫先生から、
素晴らしい贈り物が届いた。
『牙』2号のお返しにと、
ライデン自然史博物館に3日間滞在・調査した時のイヌ類の写真・ネガを送ってくださったのだ。
以来35年いつも心の通奏低音であった。
恐る恐る今日其を開いた。
この秋の時間をこの資料と共に過ごして行こうと決意した。



2022. 8/11
「シーボルトコレクション里帰り展」
ニホンオオカミ研究者八木博氏が教示された。
シーボルトコレクションの
里帰り展が来年、
シーボルト来日200年を記念して
開催されることになった、と。
それは、私にとっては、
ライデンにあるシーボルトのイヌ類資料をみる
3度目の機会になると思うと感無量だった。
1度目は、娘が生まれる直前に京都国博で。
2度目は、樫原にきた2000年に東京都博で。