日本犬科学研究室-概要-

ZIN 日本犬科学研究室
那智勝浦町色川樫原
TARO 人を犬に問う 自然史・文化史


概要


ごあいさつ

日本犬科学研究室へようこそ!

日本犬科学研究室にようこそ!
古生物・博物学者直良信夫博士の鑑定したオオカミ下顎骨加工品に導かれるようにして、その弟子であった早稲田大学考古学研究室・動物遺存体研究の創始者金子浩昌先生のもとを出て紀伊半島に入ってから、25年が経ちました。
出会い飼った犬は50頭を数えます。
山岳の自然に知と愛とを授けられた娘と息子は、沖縄と兵庫に飛び立ち、娘は、哺乳動物の遺伝子研究の入り口に臨んでいます。
忘れ得ぬ犬達のことを資料として次代に伝えたいとの切なる願いが、日本犬研究室をたちあげるきっかけとなりました。

更に7年の歳月が流れ、戌年の半分が過ぎた7月1日にこのWEB PAGEの再開をさせて頂きます。
そのきっかけは、紀伊半島に入る直前までご指導をいただいていた茂原信生氏から、このPAGEに送られて来た一通のmessageでした。
それは、20年前の神奈川県立博物館の特別展図録の表紙を飾ったニホンオオカミの復元画を評価して、私を励まして下さったものでした。
一方、茂原先生の、東大総合資料館の長谷部言人博士の犬骨の写真図録は、私の研究の大きな拠所でした。
息の長い学問の世界の有難さに触れ、紀伊半島の30年間に得た犬科の資料をこのPAGEに紹介してゆく使命のようなものを感じたのでした。



ロゴについて

日本犬科学研究室へようこそ! 1987年からの12年間、
ZINとTORAが
紀伊半島のオオカミや
紀州犬への私の
ドリーミングの源泉でした。
この雌雄を、
タイトルの左右に配置し、
このWebページの行方を
見守ってもらおうと
思っています。

日本犬科学研究室へようこそ!



コラム
忘れ得ぬ犬 1 ≪ゴンタ または 金ちゃん≫

人は忘れるために書くのだという。忘れ得ぬ犬のことを書き付けることは、忘却への諦観がやっと生じてきたことでもあるのだろう。
日本犬科学研究室のコラムの冒頭にゴールデンレトリバーを掲げることをお許し頂きたい。

ゴンタ(金ちゃん)は大阪・浪速区の迷い犬で、薬局の若き跡取り娘に一時保護された後、16歳になる同犬種の飼い犬の激しい拒絶を優先させて、娘さんが、泣く泣く手離し、家の主人に託した犬で、2000年5月に色川山岳、那智山系の西端、宝泉岳の中腹600メートルの我が家にやって来た。
習癖からマンション住まいを想像されるような犬が、山岳の厳しい自然の中に置かれたのだが、他に見ぬ濃い茶色の見事な毛並みを靡かせてよく走り、犬にも人にも友好的だった。
獲物として咥えたウリボウを主人の命令に従い、そっと離して逃がしてやったこと、
宝泉岳から流れ落ちる宝竜ノ滝の広い幽玄な滝壺を嬉々として泳ぎ回ったことは、
ゴールデンレトリバーの本領を垣間見せるエピソードといえる。
吻端から頬に白髪が広がり、獣医さんから、この犬種の短命なことを知らされてから3度目の冬を越え、紀伊半島に激甚災害をもたらした台風12号の一つ前・台風6号の大雨を越して、お盆の8月14日明け方、3時39分、宝泉岳の頂上に頭を向け、14歳の長寿を全うして永眠した。遺骸は、庭に埋葬したが、ゴンタの魂は、いつも我が傍らに寄り添っていてくれることを身に沁みて感じている。J.S.Bachのソナタのヴィオラ・ダ・ガンバの音色の中にゴンタの声を聞きながら… 。 

(2011.11.27 / 井上百合子記す)

忘れ得ぬ犬1



忘れ得ぬ犬

信号
2007.12.7〜2018.8.13
父親 白仙(血統資料・遺体保存
母親 澄(樫原に生存、山犬)
樫原生まれ。一度も生地を出ることなく、樫原にて保存。
忘れ得ぬ犬1 忘れ得ぬ犬1 忘れ得ぬ犬1 忘れ得ぬ犬1



熊野断想
66歳の私、リヒテルの66歳


満66歳を迎えた今日も樫原〜小口〜勝浦と回遊した。
リヒテルのバッハ、ブラームスのCDを聞きながら。
バッハのロンドになると、リヒテルの力強いリードで私の心もステップを踏む。
彼の最晩年78歳のコンサートの録音だ。
66歳のリヒテルの東京公演を、37年前に上野で聞いた夜のことを辿って行った。
コンサートの最後の演目は、ショパンのノクターンだったことは、プログラムの記録に有った。
「私一人に向って奏でているように感じた。」と、仲人役依頼の席で言葉にして苦笑された記憶と符合した。
リヒテルは、前触れもなく小さな教会の前にピアノを積んで出掛け、演奏するのが理想、と語ったそうだ。
多分、大地に向って、と私はかってに解釈する。
リヒテル66歳のノクターンを思い、78歳のロンドの波長を受けながら、66歳の私は、今日も熊野山中を回遊する。



熊野断想
印南祭にて


2018.10.2.
台風一過の海辺の道を走り、家人のふるさと印南祭に出掛けた。
84歳の戌年生まれの家人が頻りに口にする少年時代の印南・本郷の世界を、家人を車椅子に乗せて廻ることが、私の今年の務めと感じられたからだ。
本郷の実家の井戸のある辻から千ヶ寺谷の井戸、東宮さん、従兄弟たちと集った祖母の住む家の柿木、寺の文庫があった東光寺まで、少年時代の全世界は今となっては、車椅子を押して5分の空間だった。
それぞれのシーンに打って付けの登場人物があり、短い昔話を交わし、近くなる祭囃子に誘われて印南駅近くの線路を渡って八幡さんの鳥居をくぐった。
25年前から何回となく見てきた、重箱獅子舞、4つの部落の獅子舞、へやまわし、そして笛の音なのだが、今年は獅子舞の米拾いという仕草が、気になっていた。
家人によれば、昔は、獅子舞のこの場面に、「高い山から谷底見れば、瓜やなすびの花盛り」という歌詞がついていたのだそうだ。
伊勢の太神楽として、8景8曲に集大成されている中で、地を祓う四方の舞にあたるのが、印南の重箱獅子舞であり、印南の1時間近い獅子舞は、伊勢神楽で幾つかの景に分化する以前のものと考えた。
初めて重箱獅子舞を見た時から、サイレントのなかで、能の動きよりもさらにじりじりと止まっているかのごとき所作、緊張感は、野生の犬とそれを手なづけようとする犬飼との間に生じたものだと、龍神・虎ヶ峰で家人が捕獲したTORAを飼っていた私たちは直観したのだった。



また、印南の獅子舞は、可愛いイヌの仕草に見えて、仕方がなかった。
お渡りを終え、印南漁港で御神輿の前で舞う最後の獅子舞を待つ本郷の現役の鬼役さんの隣りに、よく見ると、家人の従兄弟と円座になって先代の鬼役さんがおられるのに私が気付いた。
鬼の名手と言われた舅さんから教わったという坂本の浜のその人は、獅子舞いの獅子はイヌ、と私たちが言うのを聞いても、「そうかい、イヌかい。」というだけで、怒った風も見せなかった。
鬼役さんの装束の腰に付けた赤い猿は、印南の鬼が、猿田彦であることを象徴していた。



伊勢太神楽の扇の舞の解説に、‘猿田彦の持つ扇がほしくてたまらない獅子は、猿田彦を追いかけ、じゃれつき、最後には、猿田彦は、獅子に扇をとらせてやる。こうして、猿田彦の導きにより立派に成長した獅子は、初めて神獣となる。’とあるのを、最近見つけ、安堵した思いだった。
今回私の課題であった、獅子の米拾いと、上に記した歌詞に関連して以下の3点のインスピレーションを提示したい。
50年前高校生の私は、観世銕仙会が、飯田橋にあった能楽堂で月1回行う公演に連れていってもらっていた。『石橋』というシナリオが手元に残っていることから、文殊菩薩の浄土といわれる山西省・清涼山の牡丹に戯れる連獅子の舞を、高校生の私も見ているはずだった。
枕草子の翁まろは、3月3日の宮中行事に、蔵人の頭の弁に引かれ、柳、桜、桃をその立派な毛並みに挿してゆるぎ歩いていた。翁まろは、チベット原産のマスチフ犬の面影を残すイヌだったのではなかったか。
そして、この米拾いの歌詞の、瓜やなすびは、インド東部やヒマラヤ原産だという。

ああ、米拾いの後、猿田彦の鬼とともにドリーミングに陥った獅子の夢枕に立った景色は、岩山から、瓜や、なすびのはなざかりの村里を見遥かする桃源郷ではなかったか。


印南祭から一月が過ぎようとしている。
薄れゆく興奮とは裏腹に、狩場明神=犬飼=隼人=猿田彦=犬祖族と見る30年来の私見が、今もなお、心の底流にあることに、驚愕する。
この底流を、後日、また、このコラムに。